ルカ 18章

「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちをみもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このようなものたちのものです。』」(15‐16節)

弟子たちは、良いことをしたと思っていたことでしょう。うるさい子供たちにイエス様が煩わされないようにと配慮したのですから。けれども、イエス様の反応はま逆なものでした。憤って、と書いてある福音書もあります。わたしたちが求めるべき姿勢をこの個所から学ぶことができます。すなわち、自分の思い込みやモラル、基準ではなく主はどう思っておられるかということをいつも優先するということです。神様が怒ってもいないことを、神様のふりをして怒ってはいけません。いつも聖書の御言葉に耳を傾けて謙虚な姿勢を持ちましょう。
自分の基準で他者を判断することがありませんように。

ルカ 17章

「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの足元にひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」(15節)

たった一人、しかもサマリヤ人。
十人もの人が一度に癒されたにもかかわらず、イエス様の下に感謝をささげに来たのは前述のとおりでした。こんなにも大きな御業を目の当たりにしたのに。なんという恩知らず。わたしたちはそのように感じてしまうのではないでしょうか。しかし、良く思い返してみてください。祈りが応えられたときに、私たちは神様に感謝を捧げていますか。栄光を主に帰しているでしょうか。自分が頑張ったから、もしくはラッキーという言葉で本当は神様がしてくださっていることを無視してはいないでしょうか。今日、生かされていることに感謝しているでしょうか。偶然、ラッキーに生きているのではなく、神様が生かして下さっているから今日という日があるのです。

ルカ 16章

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(13節)

この聖句は私(牧師夫人)が献身の召しを受けた時に与えられた御言葉です。当時高校二年生だった私にはいくつかの夢、ビジョンがありました。人生を主のために、との思いを持ちながらも一方では自分のプランを手放すことができない、そんなもんもんとした数か月を過ごしたのち与えられたデボーションの中での明確な道しるべとなる御言葉でした。わたしは観念し、握っていたすべてを手放しました。どうなっていくのかは全く想像できませんでした。でも、神様は私の握っていたものを、想像をはるかに超えたよきものとして与え直してくださいました。ハレルヤ!

ルカ 15章

「あなたがたに言いますが、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(10節)

私たちクリスチャンにとって最大の喜びは何でしょうか。それは誰かがイエス様に出会う瞬間に立ち会えること、そしてその人の人生が変えられていくことではないでしょうか。そのためにこそ私たちは生かされ、イエス様を伝えていく働きに携わっています。逆に、喜びを失う時とは、イエス様を伝えることを辞めてしまっている時だと思います。なぜなら、この福音をつたえるために、聖霊様は私たちに注がれるからです。伝えないなら、注がれません。その必要がないからです。喜びの火も、消えていってしまいます。天が御使いの喜びの声で満ち続けるように、わたしたちは地上での役割をしっかりと果たしていこうではありませんか。

ルカ 13章

「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(3節)

イスラエルの人々は、自分たちはきよく正しい生活をしている、罪びとたちとは違う、そんな風に考えていました。わたしは良くて、あの人たちは汚れているという考え方はともすると私たちクリスチャンも陥りやすい偏った考え方です。自分は良く祈っている、自分は神様によろこばれる生活をしている、自分は礼拝をきちんと守っている・・・その一つ一つはもちろんとても大切で実行するべきことなのですが、自分ができていると思った瞬間、人間は出来ていない人を裁く傾向にあるのだということではないでしょうか。イエス様は「悔い改めないならあなたたちも同じなのですよ」と言いました。傲慢になると私たちは悔い改めが必要な存在であることを忘れてしまいます。謙遜に、へりくだる思いをいつも持っていたいものです。

ルカ 12章

「あなた方の宝のあるところにあなた方の心もあるからです。」(34節)

私たちの宝。それは最も時間を費やし、心をかけているものに他なりません。皆さんにとって、今、最も心を占めている存在は何でしょうか。子供でしょうか。孫でしょうか。それとももっと物質的なものでしょうか。
今一度心の中を点検してみましょう。そして心の中だけでなく、自分が使っている日々の時間を見つめ直してみましょう。どんなに否定してみても、やはり一番時間を使っているものがあなたの宝となっているのです。
私たちは本当の宝を見失わないようにしましょう。

『なにはともあれ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなた方の父は、喜んであなた方に御国をお与えになるからです。』(ルカの福音書12:31‐32)

ルカ 11章

「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(2‐4節)

弟子たちの「祈りを教えてください」という求めに応じて、イエス様が祈りを教えられました。まず、神への賛美から始まります。そして、神の国、神の統治がこの地上にもたらされることを祈ります。そして、具体的な必要、日々の必要のために祈ります。そして、赦しの問題です。この世界に完全な人はいませんから、赦し合うことは何よりも重要なことです。赦せない思いが苦い根となり人生を混乱させます。イエス様が十字架にかかり赦してくださったことを覚え、イエス様にあって赦すことを学ぶ必要があります。最後は、誘惑から守られることを求める祈りです。

ルカ 10章

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(42節)

マルタはイエス様をせっかく家にお迎えしたのに、もてなしのために気が落ち着かず、イエス様のメッセージを耳にすることもできませんでした。そして、妹のマリヤが手伝わないと文句を言いました。それに対してイエス様の答えは、

「必要なことは一つだけ、それは、わたしの足元に座って、みことばに聞き入ること。それを取り上げてはいけない」。

イエス様はマルタを愛していました。マルタの働きも認めていたと思います。しかし、イエス様のメッセージに耳を傾けることを取り上げることは断じてしてはならないことでした。神は奉仕者ではなく、礼拝者を求めておられるからです。信仰は聞くことから始まります。祈りなくして奉仕はありません。聖書を読む時間を確保することは優先されるべきです。

ルカ 9章

「人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。」(17節)

男性だけで5000人も人がいたのに、イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、それらの人々の飢えを満たされただけではなく、満腹にされたと言います。さらに、余りまであったと。日曜日に教会で語られる説教(メッセージ)は、5つのパンと2匹の魚のように、至らないところが多々あるかもしれません。しかし、キリストの教会でそれが語られる時、生ける神キリストがそれを祝福して、そこに集う一人一人を満腹にしてくださる、否、余りあるほどにしてくださるという世界があるということに心を留めたいと思います。なぜなら

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)
この一年も、聖霊なる神様がみことばをもって皆様を満たしてくださいますように。