ヨハネ 16章

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(33節)

今日の箇所は十字架にかかられる直前のイエス様が、弟子たちに語られた最後の言葉だと言えると思います。異端の特徴の一つに、繁栄を過度に強調するということがあげられます。聖書は、祝福をもちろん語っていますが今日のイエス様の言葉を見るならば、この地上の歩みにおいては困難なことに直面することがあることを忘れてはいけません。うまくいっていないときは祝福されていないのだ、ということではなく、どのような状況に置かれても、神様の視点を持ってその御手にすべてをおゆだねすることが出来ることこそ、わたしたちキリスト者の最大の祝福だと思います。イエス様の勝利の中に、わたしたちは平安を見出すのではないでしょうか。

ヨハネ 15章

「わたしはぶどうの木で、あなた方は枝です。ひとがわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5節)

教会にぶどうの木が植わってから12年目を迎えました。毎年、毎年、枯れてしまったように茶色くやせた枝から信じられないほどの生き生きとした緑の葉っぱが春の訪れとともに登場します。花が咲き、実がつき、その実が大きくなって熟すまでには長い時間がかかります。でも、木に枝がつながっている限り、その実は枯れることなく秋には美味しい葡萄となってわたしたちを楽しませてくれるのです。枝のもとに木に流れるいのちと栄養が注がれてくるように、わたしたちもイエス様にしっかりとつながって、その豊かないける水を注いでいただき、どんなに時間がかかっても収穫の日を迎えることのできる信仰の歩みをしていきたいと切に願います。

ヨハネ 14章

「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」(27節)

聖霊なる神様について、イエス様はいくつか言及されています。この箇所を読むと、聖霊様は単なる「ちから」ではなく、人格を持ち、意思ある存在として明確に語られています。聖霊なる神様のお働きは様々ありますが、わたしたちを教え、聖書の御言葉を思い起こさせて下さるとはなんと素晴らしいことでしょうか。逆風の多い信仰生活において、聖霊様の存在を抜きにしては前進していくことは不可能です。なぜなら、イエス様はこうもおっしゃったからです。
『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』使徒の働き1:8

ヨハネ 11章

「しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことは出来なかったのか』という者もいた。」(37節)

先週、エジプトのキリスト教の一派コプト教会の信徒21人がリビアのイスラム国を名乗る者たちに殺されるという痛ましいニュースが報道されました。私自身、エジプトを以前訪れた際、コプト教会の中を案内していただき、ちょうど教会に来ていた信者の方の生まれたばかりの赤ん坊を抱かせてもらうという思い出もあって、今回のあまりにもひどい出来事に言葉もありません。なぜ、神様は彼らが殺されることに沈黙しておられるのだろう?と。今日の群衆の言葉のようにわたしの中に、未だ答えはありません。でも、25節のイエス様の言葉に一筋の明確な光を見出すのです。
『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』

ヨハネ 10章

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立っていきます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます。」(4節)

イエス様は27節で

『私の羊はわたしの声を聞き分けます。』

ともおっしゃいました。イエス様の声を聞き分けることは難しいことではありません。いつもその御声を聞いておけばいいのです。そうすれば、たとえ他の声が聞こえても迷うことはないはずです。しかし、どうして私たちはしばしば迷ってしまうのでしょうか?それは第一に他の様々な声と同じくらいの頻度でしかイエス様の声、すなわち聖書の言葉を聴いていない、大事にしていないということ、第二に、イエス様が何を語っておられるかを分かっていながら実行したくないという自分の思いのなかで葛藤しているということです。こんなとき、イエス様だったらどうするだろう?といつも信仰のアンテナをピンと張って歩みたいと思います。

ヨハネ 9章

「弟子たちは彼についてイエスに質問していった。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」(2-3節)

長男が先天性の病気で生まれてきたとき、わたしは妊娠期間の自分のなにが悪くてこうなったのだろうと落ち込み、自分自身を責めました。とても辛い経験でした。この聖書の箇所にその後どれほど励まされたか分かりません。ここに出てくる両親も、本人も苦しんでいたと思います。しかも当時はこういった障害は罪の結果だと言う考え方があった様ですから、その心の痛みはいかばかりであったでしょう。しかしイエス様は、全く新しい視点を弟子たちに与えました。このマイナスに見えることも、主によってプラスとなることを人々は目の当たりにしたのです。主の御名を賛美します!

ヨハネ 8章

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(12節)

やみで行われていることが、光に照らされて明らかにされることはしばしば目にします。それは、組織であったり、個人であったり形は様々ですが、照らされたらまずいと思っているようなことが今もしあなた自身の人生にあるのであれば、イエス様はそのやみからあなたを自由にしてくださる方であることを知っていただきたいと思います。『罪を行っているものはみな、罪の奴隷です。』ともイエス様は語っていますが、事実暗闇で行っていることにわたしたちは縛られ、自由を奪われて神様の御顔を避けて生きていることがあるのです。いま、あなたはどこにいますか?自由の中を歩んでいますか。もしやみの中を歩んでいるように感じるのなら、今すぐにイエス様の下に立ち返りましょう。主は待っておられます。

ヨハネ 7章

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、そこには不正がありません。」(18節)

バプテスマのヨハネは、イエス様に言及してこう言いました。『あの方は盛んになり、わたしは衰えなければなりません。』
イエス様の生き方に習おうとするなら、わたしたちは人間が本来持っている自己中心や名誉欲といったものと戦わなくてはならないことに気づきます。数年前にある大きな聖会に参加した時、いくつかの教会が賛美を導きました。フルバンドで、元気に演奏したある教会の青年リーダーが、自分たちの教会と牧師がどれほど素晴らしいかということを熱く語っていました。その話を聞いているうちに、イエス様への思いがどんどん消されていくのを感じて本当にがっかりしました。わたしたちが目立っても何の意味もありません。教会はイエス様が目立っている場所であるべきです。

ヨハネ 6章

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えて下さったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(38‐39節)

神様の御心をわたしたちはどのようにして知ることが出来るでしょうか。聖書を読むと、イエス様が一人さびしい場所で祈っておられた、という記事がいくつも出てきます。そこは、雑音のない空間。神様と一対一で過ごす特別な時間であったと思います。わたしたちが生きる現代は、音を遮断することがとても難しいと思います。けれども様々な情報や声があふれる中で時間を取り、静まって神様の御前に出ることができなければ、御心が分かるはずがありません。御心や導きが分からない、と嘆く前にまず、主との静かな時間を取ることをお勧めします。

ヨハネ 5章

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39‐40節)

どんなに聖書を勉強しても、イエス様の元に行かなければ本当の意味するところを知ることはできません。しかし、多くの聖書学者といわれる人々は、信仰を抜きにして学問的に、あるいは歴史的に、神学的に聖書をとらえようとしています。時間の無駄では?といつも思います。事実、イエス様と同じ時代、同じ時間を過ごしていた人々の中にも、イエス様を見ることなく、メッセージの本質に耳を傾けることなく、十字架につけろ、と叫んだ人々もいたのです。皆さんは聖書をどのように位置付けているのでしょうか。旧約から新約を通して貫かれている『イエス・キリスト』に目を向けることができますように。