ヨハネ 4章

「イエスは答えて言われた。『この水を飲むものはだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲むものは誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(13‐14節)

わたしたちの欲望、欲求は留まる事を知りません。とてもほしかった何かを手に入れたら、あっという間にまた別の欲しいものを見つけるのではないでしょうか。愛に関しても同じことが言えると思います。愛を求めてさまよっている人がなんと多いことでしょうか。ある人は、人間の心の中には鍵の形をした空洞がある、と言いました。その空洞にぴったりとはまる鍵は、イエス様だけが持っているのだ、と。それを見つけるまで、沢山の別のものでその穴をふさごうとしても無理なのだ、と。イエス様に出会い、渇くことのないいのちの泉がこころにわき出ることを、今、祈りましょう。

ヨハネ 3章

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16-17節)

幼いころ、神様という存在は「バチ」を与える怖いものだと思っていました。そのためにいつも見張っている。失敗したらダメなんだ、と。けれども神様がこんな自分に目を留め、関心を持っておられ、愛して下さっていることを知った時に私の人生は変わりました。神様の愛は、いま、このデイリーデボーションを読んでおられるあなたにも、もちろん、注がれています。目を閉じで、神様の声に耳を傾けてみてください。あなたがここにいることを喜び、人生を導いて下さる方が、今日も共におられます。

「主よ。きょうも私の歩みを助けてください。」

祈りを持って一日を始めましょう。

ヨハネ 2章

「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、― しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。 ―」(9節)

奉仕することの素晴らしさは、奉仕した者だけが知ることができる世界があるということです。クリスチャンは皆、奉仕者です。講壇の上に立つ人だけが奉仕者ではありません。人に気づかれないような、水をくむような奉仕が教会にはあります。誰にも評価されないように感じる奉仕であっても、奉仕をしたものでなければ分からない世界があります。もっとも、この箇所の水をくんだしもべたちは、どうして、イエス様が水がめに水を満たすように言われたかは分からなかったと思います。しかし、みことばに従って行動した時、水がぶどう酒に変わるという奇跡を体験しました。今はたとえ分からなくても、みことばに従って、主イエス・キリストのからだである教会に仕えていくことができますように。

ヨハネ 1章

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節)

「私たちの間に住まわれた」と訳された言葉は、「幕屋を張られた」という意味です。旧約聖書の出エジプト記に、イスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒野を旅して約束の地へ向かったことが記録されています。彼らが荒野を乗り越えることができた理由は、彼らの中心にはいつも、「幕屋」があったからです。「幕屋」が意味したことは、彼らと共に神がおられるということでした。出エジプト記にこう記されています。

「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」(出エジプト40:38)

イエス・キリストは、これと同じように、私たちと共におられるため、私たちの幕屋となるべく、この地にお生まれになられました。

レビ記 27章

「もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」(8節)

定められた評価に達しない人は、祭司に申し出るように求められています。ですから、今、自分の価値を見失っているならば、私たちの大祭司、イエス・キリストに申し出るべきです。自分の能力の乏しさ、自分の存在意義に苦しんでいるならば、大祭司、イエス・キリストの評価を受けるべきです。聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15,:16)

イエス・キリストの評価は、

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」

レビ記 26章

「あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。」(1節)

神はYHWH(ヤハウェ「主」)だから、偶像を造ってはいけないと聖書は言います。YHWHの意味は、英語のBE動詞にあたる、「存在する」(出エジプト3:14)です。「存在される(自立自存)」のお方が、人(被造物)の手で造られた偶像になぞらえられるのは侮辱以外の何ものでもありません。また、「存在する」神は、今生きて働かれておられるお方ですから、過去の記念品のように偶像として拝まれることは、存在していることを否定されることでもあります。もっとも物体として彫刻しなくても、頭の中で自分の好みの神という偶像を作ってしまうこともあると思います。私たちは聖書から、まことの神、YHWHを知る必要があります。

レビ記 25章

「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。」(2節)

神はイスラエルの人々に、七年ごとに土地を休ませることを命じました。しかし四九〇年間、彼らはこの戒めを守らなかったとある学者は指摘します。その結果、四九〇年後に彼らはバビロン帝国に捕囚され、必然的に土地は七〇年間の休みを得ました。つまり、四九〇年分の七年ごとの休み、失われた七〇年分をその時、傷みをもって捧げたのです。土地を七年ごとに休めることに意味があったように、献金を捧げることにも意味があります。ある牧師は、人は皆、結局のところ収入の十分の一を捧げていると言います。献金という祝福された形で神に捧げない人も、結局、その分を痛みをもって失ってると言います。しかし、捧げる人に神は次の約束を与えています。

「心配はいらない。六年目を豊作にし、たっぷり三年分の収穫を上げさせよう。」(21,22節LB)

レビ記 24章

「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」(20節)

償いの義務に関する有名な律法ですが、キリストは本当の意味をこう語っています。

「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38,39)

もともとレビ記で言いたかったことは、度を超えた復讐の制限でした。復讐の連鎖は何も生み出さないからです。キリストは自分を嘲る人々に嘲り返すことはしませんでした。自分に唾を吐く人に、唾を吐き返しませんでした。自分を裏切った人々に、裏切り返すことはしませんでした。ご自分を否定し、無視する人類を救うために十字架の上で死んで下さいました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)

レビ記 23章

「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(42、43節)

毎年居心地の良い自分の家を離れ、なつめやしの葉で作られた小さな仮小屋で八日間過ごすことを、神はイスラエルの民に求められました。仮小屋で過ごす不便な八日間、神の愛と神がいかに自分のことを気にかけておられるかを彼らは感じることができました。先祖たちが荒野で喉が渇いて死にそうになった時、神が岩から水をだしてくださったことを思い出しました。

この祭りの終わりの日にキリストは立ち上がり言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

私たちは仮庵の祭りを祝いませんが、祭りが指し示すキリストを祝います。

レビ記 22章

「また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。」(21節)

いけにえをささげるときに、神は傷のないものでなければいけないと言われました。そのように言わなければ、人が残り物や、どうでもいいものを捧げるという傾向があることを知っていたからだと思われます。神はアクセサリーではなく、王の王、主の主なる偉大なる神です。もっとも、究極的に傷のないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストという完全ないけにえを通してのみ、人は神に近づくことができます。イエス様は言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)