民数記 36章

「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」(13節)

エリコに近いヨルダンのほとりというのは、約束の地に入る直前と言うことです。イスラエルの民が約束の地で気ままに生きて自滅していかないように、命令と定めを与えたと言います。神は私たちを愛し、私たちの人生を気にかけておられるお方ですから、私たちに命令と定めを与えてくださいます。人は残念ながら自分の思い通り、気ままに生きようとすると、破滅に向かってしまいます。もちろん神は私たちの自由意志は尊重してくださいます。しかし、私たちが豊かな人生を生きることができるように聖書を与えてくださっています。私たちは神が望んでおられること、神が命じられていることを聖書に尋ね求めることができます。聖書の中に豊かな人生の秘訣があります。

民数記 35章

「あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」(34節)

神はご自身が人々の真中に臨在するから、

「こんなことで汚したりしないよう、くれぐれも注意しなさい」(LB)

と言われました。教会もイエス様が真中にご臨在されている所です。ですから、私たちは不満や批判をぶつけ合って、キリストの教会を汚さないように気をつけることが大切です。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

初代教会の時代から、不満を抱くようなことがあったのだと思います。しかし、イエス様のゆえに赦し合うことが求められています。

「何よりも大切なことは、愛にあふれて生きることです。」(同14節LB)

民数記 34章

「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」(2節)

イスラエルの人たちはまだ、約束の地に入っていませんでしたが、神は境界線を引くように命じました。グローバル化の流れの中で、境界線という概念は否定的にとられやすいものだと思いますが、聖書的には大切な概念でもあります。境界線を引くことは、私たちの人生のためにも必要なことです。もし、境界線を引かずに生きようとしますと、周囲の人に操られてしまいます。聖書は言います。

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒17:26)

すべてに時があり、自分が関わることができる範囲があります。ですから、周りに合わせるのではなく、神のみこころを求め、祈りつつ歩むことが大事になります。

民数記 33章

「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」(2節)

33章には、「何々から旅立って何々に宿営した」という記録が3節から49節まで続きます。なぜ、神様はそんなことをいちいち記録するようにモーセに命じたのでしょうか。

第一に、この記録は私たちに神様が私たちの人生の全旅程をご存知であるということを伝えています。

そして第二に、この記録は、神様が必ず導いてくださるということを私たちに伝えています。神様は私たちの人生の全旅程をご存知であり、どこに宿営するかもご存知です。そして、どこに導くかもご存知です。神様は必ず私たちを約束の地に導き入れてくださいます。

ですから、たとえ理解できなくても、日々、すべてをご存知な神様に信頼し、ついていこうではないでしょうか。

民数記 32章

「また彼らは言った。『もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。』」(5節)

ガド族とルベン族は、ヨルダン川を渡る前の土地で十分だと言い、自分たちは約束の地を所有地としてはいらないと言いました。解釈が難しいところですが、彼らの主張は、肯定的ではないように思えます。神のご計画は将来と希望を与えるためのものですが、そのためには乗り越えなければならない試練があります。その手前で満足して、前進することをあきらめる誘惑の問題です。使徒パウロもこう言います。

「愛する皆さん。私は、まだその目標に達してはいません。ただこの一事に、全力を注いでいます。すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、ゴールに到着してほうびを得るために、一生懸命努力しているのです。」(ピリピ3:13,14LB)

民数記 31章

「モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。」(54節)

旧約聖書の戦いに関する記事は難解です。新約聖書では

「戦う相手は、血や肉をもった人間ではなく、肉体のない者たちです。」(エペソ6:12LB)

とありますので、人間対人間の聖戦は、聖書のメッセージではありません。ミデヤン人は先の25章では、誘惑の象徴として出てきています。ですから、ここでは誘惑との戦いとして理解することができると思います。生きている限り、私たちは様々な戦いがあります。その戦いを乗り越えられたことを記念して捧げることは、意味があることだと思います。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ささげ物は、神の天幕に運び、戦勝の記念として、たいせつに保存することになりました。」

今日はイエス様が死に勝利して復活されたイースターです。

民数記 30章

「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(2節)

私たちは神に、「こうしてくだされればこうします」というような誓願をしてしまうことがあります。この章では、もし誓ったのならば、誓いを果たさなければならないということを命じています。しかし、イエス様はマタイの福音書の5章でこう言いました。

「どんな誓いも立ててはいけません。」(34節LB)

また、私たちは自分の約束を信じてもらおうと、「天にかけて」と言ってしまうことがあります。しかし、イエス様はそこまで言ってはいけないと言います。

「誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。」(37節LB)

私たちは自分を追い込まないためにも、軽々しく誓わないように気をつける必要があります。自分の言葉に責任をもつ必要があります。

民数記 29章

「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」(1節)

イスラエルの人にとって、荒野での生活を保つために、多くの仕事があったと思われます。しかしこの章では、何度も聖なる会合を開くことと、仕事を休むことが命じられています。荒野での40年間、彼らを肉体的、精神的、霊的に守ったのは、彼らが終わることのない仕事を休んで、集まって主を礼拝する時間を大切にしたからだと思われます。現代人は様々な仕事をこなすために時間に追われていますが、普段の仕事から離れて、集まって神を礼拝することが、私たちを肉体的、精神的、霊的に守ってくれるのだと思います。

今日はグッド・フライデー。イエス様の十字架を覚えましょう。

民数記 28章

「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。」(2節)

約束の地を前にして、神はイスラエルの人々に再度ささげ物を命じています。それほど人というのは神にささげるという意識を与えられる必要があるということかもしれません。しかし、形式的にささげていればそれでいいというわけでもありません。ダビデは言いました。

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)

神が本当に求めているのは私たちの心であり、その心の現われとしてささげ物があります。

今日は洗足木曜日。最後の晩餐を覚えましょう。

民数記 27章

「そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。」(5節)

マナセ族の娘たちが相続地に関してモーセに直訴しました。モーセは律法に明記されていないことを自分の裁量で判断せず、神のもとへもっていきました。モーセは神のみこころを第一とする指導者でした。私たちも同じように、神の前に出し、知恵を求めるという姿勢が大事だと思います。私たちは自分たちの経験や考え方から、良かれと思ってすぐ助言を与えてしまう傾向があると思います。しかし、まことの指導者はいつも神のもとにもっていくべきであり、人々にも自分ではなく、神のもとにもっていくように励ますべきです。なぜなら、私たちを最善に導くことができるのは、神だけだからです。