使徒 17章

「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(21節)

アテネ人の問題は、何か耳新しいことばかり求めていたことでした。このようなアテネ人症候群はいつの時代にもどこの場所にも起こりえます。神が何を語ろうとしているのか知りたくて聖書を勉強するのと、何か耳新しいことを聞きたくて聖書を勉強するのとでは雲泥の差があります。そのような危険に関してパウロはこのように言及しています。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうのよい話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。」(Ⅱテモテ4:3LB)

キリスト教界においては、「耳新しいこと」は注意する必要があります。約二千年間の間に気づかないようなことは、ほぼあり得ません。私たちは謙そんに、「耳新しいこと」ではなく、聖書の真理のみことばに耳を傾ける必要があります。

今日は主の日。主の御言葉に共に耳を傾けましょう。

使徒 16章

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(25節)

ピリピの町で宣教活動をしていた使徒パウロとシラスは、捕らえられ、何度もむちで打たれ、牢に入れられ、足に足かせを掛けられました。それはまさに人生の真夜中のような状態でした。そんなパウロとシラスが、真夜中ごろにしたことは、祈りつつ賛美の歌を歌うことでした。彼らの肉体は捕らえられていましたが、彼らの魂は自由でした。悲しんだり、不平不満を言うよりも、彼らは暗い牢を礼拝堂へと変えてしまいました。主に焦点を当てれば当てるほど、問題は小さくなっていきました。賛美の歌を歌う時、私たちの思いは、私たち自身から、主に焦点を変換させます。そして、賛美に満ち溢れた場所に神の力は解き放たれます。パウロとシラスを縛っていた鎖は解け、牢は開きました。神の奇跡の力を体験したいのであれば、私たちはすべてのことを感謝し、賛美の歌を歌うべきです。

使徒 15章

「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(11節)

三浦綾子さんの興味深い聖書解釈があります。

「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)

とイエス様がおっしゃったのは、

「どんな人も世の光として神がその生を赦していてくださる」

という解釈です。イエス様は、「あなたは世の暗闇」とは言いませんでした。あれでも、あんな人でも世の光、神様が命を与えてくださったからには、その人の存在を否定してはいけないと。

今日の箇所で、使徒ペテロは、ユダヤ人クリスチャンたちに、異邦人クリスチャンの存在を否定しないように言います。この世は誰一人、自力で救われた人はいません。みんな、神の一方的な恵みによって救われました。お互いの存在を尊重し合う必要があります。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

使徒 14章

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(15節)

使徒パウロたちの奇跡的な働きを見た人々は、彼らを「神々だ」とまつりあげようとしました町のゼウス神殿の祭司までが、彼らにいけにをささげようとしました。それでパウロは叫びました。

「皆さん。なんということをするのです。私たちは、皆さんと同じ、ただの人間ではありませんか。こんな愚かなことはおやめなさい!天と地と海、それにその中のすべてのものをお造りになった神を礼拝しなさい。私たちは、そのために、福音を伝えに来たのです。」(LB)

どんな人であっても、人間を偶像視すべきではありません。人間は人間です。私たちは天地万物をお造りになった造り主だけに礼拝を捧げるように召されています。

使徒 13章

「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」(38節)

使徒パウロは、旧約聖書の出エジプトまでさかのぼって、福音を提示しました。

「バルナバと私もまた、この喜びの知らせを伝えようと、こうしてやってきました。その知らせとは、神様がイエスを復活させたことによって、私たちの先祖への約束が今の時代に実現したということです。」(32,33節LB)

イエス・キリストの十字架の死と復活により、神の約束は実現しました。ですから、パウロは言います。

「聞いてください、皆さん!このイエスこそ、皆さんの罪を赦してくださるのです。イエスを信じる人はみな、すべての罪から解放され、正しい者と宣言されるのです。これは、モーセの律法ではどうしてもできないことでした。」(38,39節LB)

この喜びの知らせを、私たちもまた伝えていくように託されています。

使徒 11章

「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」(17節)

ユダヤ人以外の外国人も、キリストを信じたという知らせを聞き、ユダヤ人のクリスチャンたちはペテロを批難しました。彼らが正しいと考えていたことに反する行動をペテロがとったからです。ペテロは、はっきりと言います。

「私たちが主イエス・キリストを信じた時に与えられたのと同じ賜物を、神が外国人にも与えられたのなら、だれがそれをとどめられるでしょう。」(LB)

神がなさることを、自分たちの理解の枠組みに入らないからと言って、どうして妨げていいだろうかというこのペテロの発言は、現代に生きる私たちへの警告でもあると思います。

神の働きを妨げていないでしょうか?

使徒 10章

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」(44節)

使徒ペテロは、自分が見た幻とユダヤ人ではないコルネリオの話を聞いて悟りました。ペテロは言います。

「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(34,35節)

そして、そのことを証明するかのごとく、聖霊が、ペテロが話し続けている時に、そこにいた一人一人にお下りになりました。

「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(46節)

聖霊は、今も、神のみことばに真剣に耳を傾ける、神を礼拝するすべての人の上にお下りになります。

今日は、ペンテコステの日。共に聖霊なる神様を待ち望みましょう。

※ 本日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)! 本日の第3礼拝は、午後15時からの鶴見の合同聖会に合流するため、お休みです。

使徒 9章

「彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)

パウロは、キリスト教徒を迫害していました。ダマスコにある教会を迫害しに行く道の途中、イエス様がパウロに現れました。パウロが

「あなたはどなたですか」

と尋ねると、イエス様は

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

と答えられました。パウロが迫害していたのは教会であり、キリスト教徒でした。しかし、イエス様は、ご自身を教会と同一視されました。教会を迫害するのは、イエス様を迫害するのと同じだと。

教会は不完全な人間の集まりですから、問題がないわけではありません。しかし、イエス様はそんな欠けだらけの教会を、ご自分と同一視されました。ですから、地域教会を軽視することは、イエス様を軽視することと同じです。目に見える教会を愛することが出来なければ、目に見えない神を愛することはできません。

使徒 8章

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

エルサレム教会に対する迫害が起こり、使徒たち以外のクリスチャンはみな、散らされてしまいました。しかし、そのような否定的な状況によって信仰を失うどころか、

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

と聖書は言います。戦後、日本に来た多くの宣教師たちは、中国から追放されたためにやってきました。一つの宣教の扉が閉ざされたことによって、新しい扉が開いたのです。宣教師たちは、散らされたその場所で、再びみことばを宣べ伝えました。神の働きはそのように前進します。目の前の扉が閉ざされた時は、新しい扉が開かれる時です。扉が閉ざされた時は終わりではなく、新しいことに神が召しているからかもしれません。マイナスは必ずプラスになります。

「どのような状況でも、どこに行っても、主のみことばを宣べ伝え続ける姿勢をもちつづけることができますように。」

使徒 7章

「そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、」(2節)

初代教会の執事(教会役員)の一人、ステパノは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために捕えられ、議会にひっぱられて行きました。ステパノは、アブラハムから、すなわち、創世記からはじめて、旧約聖書全体の話をしました。

「主であるわたしは変わることがない。」(マラキ3:6)

と言われるように、神様の人類に対する取り扱いの原則は変わることがないと言っているようです。そして言います。

「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(51節)

残念なことは、それを聞いた人々は、悔い改めることなく、はらわたが煮え返り、石を投げつけステパノを殺してしまったということです。