ヨシュア 9章

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。」(14節)

イスラエルの人々は、祈って神の指示を仰がなかったがゆえに失敗を犯してしまいます。私たちもイスラエルの人々と同じように失敗することがあるのではないでしょうか。自分の目には明らかだと思って、祈らずに決断してしまったことが、大変な結果を生み出すことがあります。ですから、まず祈り、神のみ声を聞いて、神のおっしゃられるとおりに実行する必要があります。もちろん、祈って実行したら、問題が起こらない保証があるわけではありません。しかし、祈って祈って神の指示に従ったのなら、神がその結果に責任をとってくださいます。ですから、決断をする時は特に、祈って、祈って、みことばに耳を傾けて、主の指示を仰ぐ必要があります。
「主よ、あなたの指示を仰ぎます。お語りください。」

ヨシュア 8章

「主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」(1節)

イスラエルの人々ははじめ、自分たちのやり方でアイを攻め、敗北しました。今回は、神のやり方でアイを攻め、彼らは勝利を体験しました。私たちも日々の生活の中で、二通りのやり方があることに気がつきます。「自分のやり方」と「神のやり方」です。「自分のやり方」というのは最終的には敗北を体験させられます。しかし、「神のやり方」はいつも、最終的には勝利をもたらします。そのことを知っていても、私たちは「自分のやり方」をしたいと思ってしまう傾向があります。ですから、「神のやり方」を求めて日々祈り、みことばに聞くことを優先する必要があります。
「主よ、自分のやり方に固執しやすい自分を助けてください。あなたのやり方を示し、導いてください。」

ヨシュア 7章

「彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。『民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。』そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。」(3,4節)

エリコの町で大勝利を収めたイスラエルの人々は驕り高ぶっていました。彼らは神の方法で勝利を得ることができたことを忘れ、祈ることもなく戦いに行き、屈辱的な負け方をしてしまいました。私たちは常に二つの真理を心に刻む必要があります。

「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

「わたし(キリスト)を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

「主よ、勝利はただあなたから来ます。傲慢になることがありませんように。」

ヨシュア 6章

「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」(3,4節)

エリコの人々にとってイスラエルの人々はとても滑稽に見えたと思います。イスラエルの人々は戦いのために準備するどころか、ただ城壁の周りを行進するだけだったからです。イスラエルの人々も、自分たちが何をしているのか理解できなかったと思います。しかし神は言われました。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55:8)

神の方法を理解することはできませんが、信仰によって従っていく時、私たちは神の栄光を見ます。
「主よ、たとえ理解できなくても、あなたに従順できますように。」

ヨシュア 5章

「彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。」(12節)

イスラエルの民は、神が与えられたカナンの地に住み、その地を耕作し、管理し、生活の糧を得て歩むようにと導かれました。神は約束の地をイスラエルの民に与えられただけでなく、イスラエルの民が責任をもって約束の地で糧を得るようにされました。天からのマナは降らなくなってしまったのです。神は私たちが受動的な信仰に終始することは望まれません。使徒パウロは言います。

「わたしの愛する者たちよ。(中略)恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:12,13口語訳)

神は私たちの心に働かれますが、私たちが努める側面があります。

ヨシュア 4章

「イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』」(21,22節)

ギルガルの地に積み上げられた十二の石は記念碑でした。神は私たちが神の御業を忘れやすいことをご存知だということだと思います。確かに残念ながら、私たちは神の恵みを忘れてしまいやすい傾向があると思います。さらに、ここでの記念碑は、次世代の子どもたちのためだと言います。神の恵みの御業を次世代に伝えることは大事なことだと思います。具体的には、神が私たちに与えてくださったライフ・メッセージ(人生の物語・証)を書き遺すこともできると思います。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)

ヨシュア 3章

「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(13節)

神は私たちが成長することができるように信仰のレッスンを与える方です。15節にはこう記されています。

「ちょうど刈り入れの季節を迎えたヨルダン川は、岸いっぱいに水をたたえていました。人々が川を渡ろうと出発し、箱をかつぐ祭司たちが足を入れた瞬間、はるか上の上流のツァレタン付近の町アダムで、水はダムにせき止めたられたように、盛り上がり始めたではありませんか。」(LB)

彼らが足を入れるまで、水はそこにありました。彼らの足は濡れる必要がありました。しかし、足を入れた瞬間、ヨルダン川の流れは止まりました。神は私たちに、たとえその足が濡れても、信仰の一歩を踏み出して欲しいと願われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨシュア 2章

「私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。」(18節)

エジプトでは、小羊の血を塗った家の初子のいのちが守られました。このエリコの場合は、赤いひもを結びつけておいたラハブの家の中にいる人たちのいのちが守られました。神は私たちのためにも逃れの場所を設けてくださいました。私たちに用意された安全な場所は、私たちのために十字架にかかり、その血潮を流されたイエス・キリストの中です。聖書は言います。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1現代訳)

イエス・キリストの中に人々を集めることが、教会の役割です。

ヨシュア 1章

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」」(9節)

恐れや不安に対する聖書が処方する特効薬は、神様の臨在です。神様がともにおられるという事実が、私たちを恐れや不安から解放してくれます。ダビデ王も、そのことをよく理解してこう歌っています。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)

神様の臨在が恐れと不安を取り除いてくださいます。復活されたイエス様が、天に戻られる前に恐れと不安の中にいた弟子たちにこう約束されました。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

彼らは恐れや不安が来たらいつも、このみことばの約束を宣言していたのだとおもいます。

使徒 28章

「そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。」(23,24節)

使徒パウロは朝から晩まで一生懸命、聖書を用いて説得しようとしました。しかし、「ある人々は信じようとしなかった」と聖書は言います。「信じられない」のと、「信じようとしない」のとでは大きな差があります。「信じられない」ならば、信じられるようになります。しかし、「信じようとしない」ならば、いつまでたっても、信じることはできません。大伝道者、使徒パウロの聖霊に満ちたメッセージでも、不可能だったのです。しかし、それでも信仰は聞くことからはじまると言いますから、私たちはあきらめずに語り続けることが大切なことではないでしょうか。