使徒 27章

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」(25節)

嵐と闇、それにいつ難破するかわからない危険の中で、船の中にいた人々は、不安と恐怖におののいていました。その中でただ一人、落ちついて人々を励ましている人がいました。それが使徒パウロでした。キリスト教の特徴は希望です。私たちはイエス・キリストが死の力を打ち破ってよみがえり、今生きておられることを信じています。人生がたとえどんなに暗闇であったとしても、よみがえられたキリストの臨在は、私たちを励まします。私たちにとって死は、「死の陰の谷」と呼ばれるように一時的であり、死の向こうに天の御国への希望があります。ですから、キリスト者は私たちの周りにいる人々をも励ますことができるようになります。いつも共におられるキリストの臨在は、私たちの恐れを取り去るためだけではなく、元気を失っている人々を励ますためでもあります。

使徒 26章

「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(29節)

使徒パウロはアグリッパ王たちを前にして弁明をしました。それはパウロの証でした。彼の宣教活動は、

「天からの幻に従った」

のだと言いました。アグリッパ王は言います。

「お前は短時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようというのか。」(28節岩波)

それに対してパウロは言いました。

「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

パウロは囚われの身でした。しかし、パウロは、キリストを信じて生きていることに、後悔するどころか、幸いを感じていました。だから、パウロは

「わたしのようにクリスチャンになってください」

と、堂々と言いました。

パウロはキリストと共にある幸いに生きていたのです。

使徒 25章

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(19節)

使徒パウロの主張は、イエス・キリストが生きているということでした。キリスト教会の主張も、キリストが生きているということです。復活は福音の中心です。もし、キリストが死からよみがえられなければ、十字架は意味がありません。ですから使徒パウロは言いました。

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」(Ⅰコリント15:14口語訳)

クリスチャンの信仰は、死からよみがえられたイエス・キリストの復活に見いだすことができます。使徒ペテロは言いました。

「キリストが死者の中から復活してくださったことにより、私たちは永遠のいのちの希望にあふれています。」(Ⅰペテロ1:3LB)

復活は私たちに希望を与えてくれます。

使徒 24章

「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。」(24,25節)

使徒の働きの22章から26章まで裁判の記事が続きます。22章で、パウロは民衆の前で弁明し、23章で、サンヘドリンというイスラエルの宗教的指導者たちを前に弁明します。24章は総督ペリクス、25章では総督フェスト、26章ではアグリッパ王の前で裁判が行われます。裁判の場がパウロにとって福音宣教の場でした。総督ペリクスはパウロから「キリスト・イエスを信じる信仰について」、直接、話を聞きました。しかし、彼は、「恐れを感じ」、「おりを見て」と、信じる機会を逃してしまいました。「おりを見て」いると機会を失います。
今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

使徒 23章

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(11節)

使徒パウロは、キリストをもっとも信じて欲しかった同胞のユダヤ人たちに拒絶され、落ち込んだのだと思います。主がパウロの側に立って、彼を励ましました。

「エルサレムでは大変だったけれども、よくわたしのことをあかししてくれた。さあ、今度は、ローマでわたしのことをあかししなさい。」

神様は、過去を脇に置かせて、未来に目を向けさせました。

私たちもパウロと同じように、仲間から拒絶されたり、見捨てられてしまうことがあります。しかし、主は私たちを見捨てることはありません。暗やみに囲まれたような時も、私たちのそばに立って、過去を脇に置かせ、未来に目を向けさせてくださいます。そして言われます。

「勇気を出しなさい。あなたの人生には目的があります。」

使徒 22章

「そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。」(8節)

使徒パウロは、彼の長年の夢でもありました同胞への伝道のチャンスに、神学的論争ではなく、自分の個人的な体験、「証」を話しました。誰かにイエス・キリストのことを伝えるのに一番力強い方法は、自分のイエス・キリストとの体験を語ることです。(ですから専門的な教育をうけてなくても伝道はできます。)イエス・キリストが自分の人生に何をし、何が変わったかを人々に語ることはとてもインパクトがあります。誰も否定することはできないからです。パウロのポイントは三つでした。まず、彼がどういう人物であったか、彼の過去。そして、彼の回心、彼の人生に神が介入されたこと。最後に、これからのこと。神がすべての人に福音を伝えるように命じたことを話しました。パウロのように、いつでも自分の証を語れますように。

使徒 21章

「するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。』と答えた。」(13節)

当時のキリスト教会にとって使徒パウロの異邦人伝道の働きは、さらに発展が見込めるものでした。ところがパウロは、もっとも危険な場所、エルサレムに行こうとしていました。ですから仲間たちはパウロを止めようとしました。

「どうして、エルサレムに行こうとするのですか?教会はあなたを必要としているではないですか。あなたを歓迎する場所があるのに、どうして、あなたに危害を加えようとしている人たちのところに行こうとするのですか?」

パウロは言います。

「問題は彼らが私に何をするかではない。私の主、イエスが、私の従順を通して何をなされるかだ。」

私たちはパウロのような、状況でなく神を中心とした視点が必要です。

使徒 20章

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(35節)

「受けるよりも与えるほうが幸いである。」

というイエス様の言葉は、福音書の中には見つけることができません。そもそも、福音書には、すべてのイエス様のことばが記録されているわけではありませんから、不思議なことではないと思います。(ヨハネ21:25参照)使徒パウロがこのみことばを覚えていたのは、当時の教会では当たり前に覚えられていたからだと思われます。大和カルバリーチャペルの玄関には、

「私たちは与えるために生きている。私たちは与えることが大好きだ。」

という英語のサインが飾られています。与える幸いを知っている人は祝福されます。与えていく時に、さらに与えるものが与えられます。与える人生は幸いです。

使徒 19章

「しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。」(9節)

ツラノの講堂は、市場の門のところにあり、パウロは学生たちが昼食のために家に帰る昼休みの時間を利用してこの場所を借りて教えていたと考えられています。二年間毎日、聖書を教えた結果、

「アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」(10節)

と言います。さらに、

「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。」(11節)

とありますから、聖書の教えとそれに伴う奇蹟がパウロの働きの中心だったことが分かります。病気はいやされ、悪霊は出て行きました。まさに、同じことが今日の教会の働きにも言えると思います。教会は日々、聖書のみことばを教えている場所です。そして、神はそのような聖書的な教会を用いて、今も、奇蹟を行われます。

使徒 18章

「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。』と言われた。」(9,10節)

使徒パウロがイエス・キリストを伝える所はどこでも、人々は彼に反対しました。彼は打たれ、牢に入れられ、石打にされました。彼は

「弱々しく、おずおずと、震えおののきながら」(Ⅱコリント2:3LB)

コリントの町に行きました。そんな彼にイエス様は語られました。

「恐れないで語り続けなさい。わたしがあなたとともにいるのだ。」

恐れへの処方箋は、神の臨在の認識です。

イエス様が共にいるという事実を認識する時、私たちはもう一度立ち上がることができます。主は言われます。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)