2コリント 1章

「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(9節)

使徒パウロはアジアで体験した苦しみに言及し、自分の無力さを痛いほど思い知らされ、自分の許容範囲を超え、死を覚悟したと言います。ところがパウロはこのように告白します。

「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(LB)

パウロは、自分ではどうすることもできないがゆえに、神様に頼ることを強制的に学んだと言うのです。神様は時に、私たちが自分自身ではなく、神により頼むことを学ぶために、私たちにはどうしようもないような状況に追い込まれることを許可します。私たちはいつになったらパウロのように謙そんになって、キリストを離れては何もできない(ヨハネ15:5)と認めることができるのでしょうか。

1コリント 16章

「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(7節)

使徒パウロは、自分の宣教旅行計画をコリントの教会の人々に伝えるのですが、こう付け加えました。

「主がお許しになるなら。」

ヤコブの手紙の中にこういう箇所があります。

「明日どんなことが我が身に起こるか、どうして分かるでしょう。・・・ですから、こう言うべきです。『主がお許しくださるなら、私は、あのこと、このことをしよう。』」(4:14,15LB)

神の民として、私たちは未来に関してこのような柔軟な姿勢を持つ必要があります。自分の計画にこだわって、神の介入を受け止めることができないのは、寂しいことです。神様は私たちの人生を最善に導きたいと願っておられます。自分の願いに固執せず、柔軟に対応していく必要があります。ある牧師はこう言います。

「幸いなるかな、柔軟な人。その人は、折れることはない。」

1コリント 15章

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節)

使徒パウロは、「今あるは神の恵み」と告白しました。恵みとは、受けるにふさわしくない者が受けることです。パウロは、過去の自分を振り返り、今自分が存在し、今自分が携わっていることを考える時、自分にはふさわしくないと、畏れを感じたのです。しかしパウロはそれで終わりません。そのことをよく理解していたからこそ、神の恵みに感謝して、人一倍努力して神に仕えてきたと言います。ところが、自分が努力できたことでさえも、考えてみると、神の恵みであったことを悟ったと言うのです。自分の功績を証するのでなく、パウロのように神の恵みに日々感謝して歩むことができますように。今日は主の日。主の恵みに感謝して、共に礼拝を捧げましょう!

※ 本日の第3礼拝(18時から)は、清水が丘教会でもたれるマイケル・W・スミスのコンサートに合流するため、お休みです。

コリント 14章

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」(40節)

使徒パウロのポイントは40節にまとめられています。

「何事も適切に秩序正しく行うようにしなさい。」(LB)

コリント教会の問題は、極端で、混乱していたということです。教会の中で、誰もが好き勝手なことを言ったり、行ったりしたら大変です。33節にこうあります。

「神様は、無秩序や混乱の神ではなく、秩序と平和の神だからです。」(LB)。

私たちの教会は、極端にならないように、バランスを大事にしています。教会の中だけでなく、様々な所でもこの原則を適用することができると思います。神は秩序と平和の神ですから、どんなことにおいても、適切に秩序正しく行うことを心がけることは神が喜ばれることです。自分が遣わされているその場所で、極端になって混乱をもたらせる者ではなく、秩序と平和をもたらすことができますように。

※ 明日の第三礼拝(18時から)は、清水が丘教会でもたれるマイケル・W・スミスのコンサートに合流するため、お休みです。

1コリント 13章

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(4節)

1コリント13章は、「愛の章」と呼ばれ、結婚式で引用されます。「愛」というところに自分の名前を入れると、自分の愛のなさが痛いほど分かる箇所でもあります。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、どんなに献身的に慈善を行っても、結局、愛がなければ意味がないというのが聖書が教えている内容です。愛を語るのに、まず「寛容」があげられているのは興味深いと思います。「辛抱強い」という意味の言葉ですが、「寛容な心」がなければ結局意味がないということだと思います。大和カルバリ―チャペルの大川師は「本質以外は寛容であれ」と言います。まさに、そのような寛容な心がなければ、何の役にも立たないということだと思います。
「本質以外は寛容であることができますように。」

1コリント 12章

「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(1節)

使徒パウロが

「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」

と言っている箇所は、大体、今も混乱しています。

イエス・キリストの再臨に関する箇所(Ⅰテサロニケ4:13)、

イスラエルに関する箇所(ローマ11:25)

も同じ表現が用いられています。

「御霊の賜物」とは、聖霊が与える賜物のことです。ここでは、超自然的な賜物です。31節に

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」

とあるように、私たちは今も熱心に賜物が与えられるよう求める必要があります。賜物は何かと考える以上に、与えられるように求めなさいと言います。ただパウロが

「私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」(31節)

と言い、13章があることも忘れてはいけません。「愛すること」はそれ以上に大事だからです。

1コリント 11章

「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(21節)

教会は様々な人々が集まる場所であり、問題が起こるのもやむをえない場所でもあります。コリントの教会もそうでした。コリントの教会は食事会をもっていましたが、貧富の差から生じる愛のない行為が横行していました。この箇所でパウロは、教会における食事会の本当の目的を思い出すように言います。単に自分の食欲を満たすためならば、家で食べればいいとまで言います。大事なことは、キリストの愛、十字架型の生き方を実践することであり、互いを思いやることだと言うのです。イエス様は多くの人と共に食事をすることを楽しまれました。イエス様は自分の時間、食物を分かち合うことを楽しまれたのです。私たちは他者を満たすことによって、自分も満たされるということを忘れてはいけません。

1コリント 10章

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(31節)

ウエストミンスター小教理問答書に、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

とあります。私たちの人生の根本的な原則がここにあります。私たちは、神の栄光のために生きています。

「神に栄光を帰す」、

これが私たちの存在目的です。もし、何であれ神に栄光を帰すことができるのであれば、私たちは堅い岩の上に立っています。私たちが、人生の中で、すべきかすべきでないか悩んだときに、これが基準になります。

「私はこのことを、神の栄光のために行うことができるだろうか?」

私たち、栄シャローム福音教会の目的は、

「私たちの必要に唯一答えることができる、今、生きておられるイエス・キリストを指し示すことを通して、神に栄光を帰すこと」

です。

1コリント 9章

「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。」(22,23節)

使徒パウロの願い、それは一人でも多くの人が、イエス・キリストに出会い、救われることでした。LBではこの箇所をこう訳しています。

「その人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。」

彼は、

「私自身はそのことに同意していなくても、議論したりはしません。何とかして彼らを助けたいからです」(20節LB)

と言い、

「『それは考えが足りない』などと指摘したりはしません。すると、彼らのほうでも心を開いてくれます」(22節LB)

と言います。

このような配慮に満ちた魂に対する情熱がクリスチャンに必要なのだと思います。

1コリント 8章

「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(1,2節)

ある牧師は、この箇所をこうまとめていました。

「自分は何でも知っているという人は、知らないということを知らない。」

情報過多に生きる私たちの問題は、すぐに自分が何でも知っているかのように傲慢になってしまうことです。自分の意見、自分の判断がいつも正しいと思ってしまうのです。しかし、大事なのは愛だと聖書は言います。聖書は愛の優先性を教えています。その良い例が、当時の宗教学者とイエス様のコントラストです。当時の宗教指導者たちは、知識を優先させました。そして、知識をもっていなかった当時の人々を蔑みました。しかしイエス様は、(どんな人よりも知識がありましたが)愛を優先されました。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。