ルツ記 1章

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(6節)

ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神様に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神様に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。

「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)

驚くことは、神様のもとに戻ってきたナオミに、神様は回復を始められたということです。

士師記 21章

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(25節)

イスラエルの人たちは、互いに自分の目に正しいことを行った結果、内戦となり、仲間同士傷つけ合うこととなりました。ベニヤミン族を打ち破ったイスラエルの人は、勝利に酔いしれるどころか、泣き悲しみました。

「イスラエルの神、主よ。なぜイスラエルにこのようなことが起こって、きょう、イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」(3節)

夫婦でも家族でも教会でも、仲間同士の争いは、結局、悲しみしか残りません。たとえ夫が妻を言い負かせても、喜びはありません。なぜ、このようなことが起こったか、それは、彼らが神のみこころを求めることをせずに、自分たちの目に正しいと見えることを行ったからです。この後、長老たちは拉致を推奨する愚かな決断をします。教会も、それぞれ自分の目に正しいと見えることをするなら危険です。聖書を学ぶことは大切です。

士師記 20章

「イスラエル人は立ち上がって、ベテルに上り、神に伺って言った。『私たちのため、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うのでしょうか。』すると、主は仰せられた。『ユダが最初だ。』」(18節)

イスラエルの人々は相談した結果、ベニヤミン族と戦うことにしました。内戦です。彼らは神にどの部族がまず最初に戦いに出て行くべきかを伺いました。しかし、そもそも戦いに上るべきかどうかを尋ねるべきでした。チャック・スミス師は言います。

「もし、彼らが正しい伺いを神にしていたら、この後に記されているような敗北を体験することはなかったと私は信じています。」

私たちも「神様、これをすべきですか?それともこれですか?」と、二、三の提案をしてその中から答えて下さるよう要求することがあると思います。しかし私たちはまず、「神様、私はあなたが私にして欲しいことをします。何をするべきですか?」と祈り求めるべきです。

士師記 19章

「それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」(30節)

士師記に希望の光を見いだすことができない理由は、人々が神に聴く姿勢がないからです。めいめいが自分の目に正しいと見えることを行うために、悲劇から悲劇が繰り返されていくのです。考えたり、相談したりすることは決して悪いことではありませんが、神に祈り、みこころを求めなければ混乱を招くだけです。この後、イスラエルの人々が相談して決めたことは報復であり、いわゆる内戦でした。そして問題は解決されるどころか泥沼化します。神は言われます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

今日は主の日。話し合うためではなく祈るため、神のみこころを求めて集まり、礼拝を捧げましょう。

士師記 18章

「そのころ、イスラエルには王がなかった。」(1節)

士師記には何度も

「イスラエルには王がなかった。」

という言葉が出てきます。確かに士師記はイスラエルが王制へと移行するまでのことが記録されているという面があります。しかし、ある聖書学者は

「士師記は、救い主を王として認めぬ者らの実体を描写した書物である」

と言います。榎本師(ちいろば先生)はこう言っています。

「私たちは救い主を助言者として迎えているかもしれない。あるいは教師、顧問として迎えているかもしれない。しかし、王としては迎えていないのではなかろうか。それがどんな言葉であろうと自分にとって都合が悪ければ聴かない、そういう自由をいつも確保しながら、私たちは主に対しているのではなかろうか。王は決して助言者や顧問ではない。絶対者である。その言葉にはどんな言い訳もゆるさない。ただそれに従うだけである。」

士師記 17章

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(6節)

哲学者たちは、普遍的な善悪はないと言います。しかし、だからといってめいめいが自分の目に正しいと見えることを行うならば、無秩序状態に陥り、結果的に社会は崩壊していきます。士師記はそのことを証明しています。人は普遍的な善悪を必要としています。そして、普遍的な善悪は、神のみことばである聖書の中で告げられています。聖書は言います。

「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8新共同訳)

人はそれぞれ自分の基準で生きていくのではなく、神のみことばを信仰と生活の基準として生きていくことが大切です。

士師記 16章

「彼女が、『サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。』と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、『今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。』と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」(20節)

聖書学者の鍋谷師はこう言っています。

「淫乱と好色のうちに異国の女と戯れるサムソンは、祈りのうちに神と交わることを忘れ、また、ナジル人として召されていることの自覚も失っていた」。

サムソンは本来ならばユダヤ人の歴史の中で英雄になれる可能性をもった人でした。しかし、彼は神を忘れ、快楽を優先してしまったために、せっかくの人生を無駄にしてしまいました。残念ながら、今も同じことが起こっています。せっかく神から与えられている可能性を、一時的な快楽のために無駄にしてしまっている人たちがいます。サムソンのように取り返しがつかなくなる前に、神のもとに立ち返ることができますように。

士師記 15章

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。」(18,19節)

旧約聖書学者の服部師はこう言っています。

「サムソンは、(性格的に弱点をもちながらも)自分なりに、士師としての使命を果たすために精いっぱい努力したのだろう。彼は、疲れ、のどの渇きを覚えて主に求めたのである。(中略)そのような疲れたサムソンに対して、神は彼に水を与えて、元気を回復させ、強められたのである。」

「エン・ハコレ」の意味は「祈る者の泉」(新共同訳)。

主を呼び求める者に、主は答えてくださいます。

士師記 14章

「サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。」(1節)

サムソンはイスラエルの人々を苦しめていたペリシテ人の女性に恋してしまい、結果的に大きな問題にまきこまれてしまいます。そもそも、サムソンがティムナに行かなければ、問題は起こることはありませんでした。神の子どもとして、私たちも行くべきでない場所というものがあります。そのような場所に足を踏み入れなければ、多くの問題を避けることができます。行くべきでないところに足を踏み入れていくならば、何が起きてもおかしくありません。特に、私たちは主の祝宴に招かれていることを心に留める必要があると思います。

「『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』」(マタイ22:8,9)

と言われないように、主に礼拝を捧げるために集まりましょう。

士師記 13章

「その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」(24,25節)

13章から有名なサムソンの話です。13章では特に、彼の特異な誕生の話が記されています。サムソンというと怪力というイメージがあるので、ゴリアテのような巨人を想像します。しかし、そのような記述は聖書にはないので、たぶん、一般的な人だったのだと思われます。それでは、彼の力の秘訣はどこにあったのでしょうか。聖書は言います。

「神の霊は、彼を奮起させるべく働きかけ始めたのです。」(LB)

聖霊なる神様がサムソンの人生に働きかけなければ、このようなことは考えられなかったと思われます。今、サムソンの人生に働き掛けられた神の霊は、イエス・キリストを信じ、聖霊を求めるすべての人の人生に、同じように働きかけてくださいます。