1サムエル 17章

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(47節)

この章は、有名な少年ダビデとゴリアテの話が記されています。ゴリアテは約三メートルの巨人でした。驚くことは、サウル王をはじめイスラエルの人々が非常に恐れたゴリアテを、少年ダビデは恐れなかったということです。榎本師はこう言っています。

「私たちはここで純粋に神を信じる者と、現実に目を奪われて、神を見失っている者とを見ることができる。」

サウルもイスラエルの人々も神は万軍の主と信じていたはずです。しかし現実に巨人ゴリアテを見た時、彼らの目は自分対巨人としか見ることができませんでした。ダビデもゴリアテを見ました。しかし彼は全能の神対巨人と見ることができました。その結果、神の力を体験しました。

問題を透かして主を見ることができますように。

1サムエル 16章

「神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」(23節)

ダビデは音楽家でした。彼が作った歌は詩篇に残されています。それらは神への賛美の音楽でした。興味深いことは、サウルが悪い霊に悩まされる時、ダビデの賛美の音楽が悪い霊を追い出したということです。賛美には力があります。悪霊は神への賛美が嫌いで、神への賛美に満ちあふれた場所に悪霊はいることができません。なぜなら神は、

「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)

さらに、サウルは賛美の中で「元気を回復」したとあります。口語訳では

「気が静まり、良くなって」、

新共同訳では

「心が安まって気分が良くなり」

と訳しています。賛美は私たちに力も与えてくれます。

1サムエル 15章

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22節)

メッセージ訳ではこう訳しています。

「神様が求めているのはただいけにえ・・・ショーのような空しい儀式だと思いますか?神様はあなたに聴いて欲しいのです。豪華な宗教的なプロダクションの上映ではなくて、普通に聴くことが大事なのです。」

スポルジョンはこう言っています。

「グレゴリア聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。」

1サムエル 14章

「たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(6節)

前の章の22節で、イスラエル全軍の中で剣や槍をもっているのはサウルとヨナタンだけだったとあります。人数だけでなく、いろいろな意味でイスラエルは劣勢でした。しかし、神にとってはそんなことは問題ではありませんでした。神のみこころならば、妨げるものは何もありません。私たちは神が働くことができるように、ヨナタンのように信仰の冒険をすることも大切なことです。たとえどんなに劣勢に見えても信仰の一歩を踏み出す時、

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

ということを知ることができます。

今日は主の日です。偉大なる神に礼拝を共に捧げましょう!

1サムエル 13章

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(11、12節)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったということです。サウル王は祭司ではないのに、祭司でなければしてはいけないことをしてしまいました。私たちは様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求める時間を確保する姿勢が必要です。

1サムエル 12章

「役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。」(21節)

人は神から離れてしまう時、役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに依存していく傾向があります。聖書は言います。

「こうして、真理を拒んで滅びへの道を走る者たちを、すっかりとりこにします。その人たちは、真理を信じることも愛することもせず、救われようなどとは考えもしませんでした。そこで神は、彼らがだまされるままに放っておかれるのです。」(Ⅱテサロニケ2:10.11LB)

いわゆる知識人と呼ばれる人が、創造主なる神を拒絶するがゆえに、愚かで空しいものに丸め込まれていることを見ます。アウグスティヌスは、神が私たちを神ご自身のために造られたから、私たちの心が神のうちに憩うまでは、私たちの心が安らぎを得ることはないと言います。

1サムエル 11章

「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。」(6節)

神の霊が人の上に下る時、何かが起こります。サウルは、神の霊が彼の上に激しく下ったがゆえに力強いリーダーシップを発揮することが出来たことを聖書は明記しています。旧約聖書ではこのような現象は、特別な時に、特別な人に、特別な目的のために限られていました。しかし、ペンテコステの日、聖霊が弟子たちの上に下った時、すべては変わりました。使徒ペテロは、ヨエル書2章にある

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(28節)

という約束は、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられていると言いました。(使徒2:39参照)
一般的に、これを「油注ぎ」と呼んでいます。私たちは皆、これを必要としています。そして、キリストを信じるなら、誰にでも与えられます。

1サムエル 10章

「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(26節)

神様がサウルを王として選ばれた時、すべての人がサウルを王として受け入れたわけではありませんでした。「こんな男に我々が救えるか」と、彼を侮った、ならず者たちもいました。しかし、神様に心を動かされた勇者たちが彼を支え、協力したことによってイスラエルの国の王制は確立しました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史を作ったのです。今から約二千年前、神の御子イエス・キリストに心を動かされた弟子たちは全世界に出て行き、世界をひっくりかえしてしまいました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくったのです。今も同じように、生ける神様は、私たちの心に触れたいと願っています。神に心を動かされた勇者たちが教会を建てあげ、神の御国をこの世に現していきます。
「主よ、私たちの心に触れてください。」

1サムエル 9章

「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(20節)

サウルはいなくなった雌ロバを捜して山地を巡り歩いていました。しかし、実は神がサウルをサムエルに会わせるために雌ロバを用いただけでした。神は同じように私たちの人生を導かれます。私たちは思い通りにいかないことに苛立ちを感じたりします。しかし実は、神がその背後で私たちの人生を導かれているのです。私たちは理解できないことに苛立ちを募らせるのではなく、その背後で働かれている神を透かして見、信頼し、委ねていく必要があります。

「私の罪が問題の原因の時、私は悔い改める。もしサタンが問題の原因なら抵抗する。もし、状況が問題の原因なら、私はリラックスして神を信頼する。」(リック・ウォーレン師)

1サムエル 8章

「主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(7節)

イスラエルの人々は、生活が安定し始めると、神への思いが薄くなり、神の支配よりも人の支配を求めるようになっていきました。榎本師はこう言っています。

「何か困難なことが起こったり、比較的責任のともなわない時代には、神を熱心に求めていた人が、生活が安定し、いろいろと地上的な責任を負わされるようになると、だんだんと神を恐れる思いが稀薄になる。そういう人が多いのではなかろうか。」

神は今も神の民を直接治めたいと願われています。だから、イエス様はおっしゃられました。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33新共同訳)

「神の国」とは神の支配の下に生きることです。