1サムエル 7章

「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(2節)

沢村五郎という牧師が、サムエルが20年間何もできなかった理由を、こう解説しています。

「それは民に主を慕う何の渇望もなかったからである。いかに偉大な預言者があっても、渇望のない民に対しては、手の施しようがないのである。」

サムエルは、

「イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」

という状況まで、待つ必要があったと言うのです。

「神様がしてくださらなければ、どうすることもできない」

という程の、渇望をもつまで、待つ必要があったと言うのです。

イエス・キリストも言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

今日は主の日です。主を慕い求め、共に、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 6章

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」(19節)

ベテ・シェメシュの人たちは、神の箱が返って来たのを見て喜びました。(12節)そして、いけにえも捧げました。しかし、聖書が禁じることをしてしまい、主に打たれてしまいます。聖書を学ばないことが、大変な過ちに導く可能性があります。どんなに素晴らしい体験をしても、聖書を学ばなかったために、とんでもない過ちを知らずに犯してしまうことがあり得ます。私たちは聖書の民となるべく、聖書を読むことができる環境にあります。聖書が教えることは、罪ある人間が、そのまま神に近づくことは許されることではないということです。ですから今も、人は私たちの大祭司であるイエス・キリストを通してでなければ神に近づくことはできません。

※ 明日のSSCの第三礼拝(18時)は、月、火と湘南国際村でもたれるTPKFイースト・フェローシップ・デイに合流するためお休みです。

1サムエル 5章

「アシュドデの人々は、この有様を見て言った。『イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。』」(7節)

ペリシテ人の神ダゴンは、ご利益を与えてくれると信じられていた神々です。ご利益宗教の特徴は人間が中心であることです。そのような神は人間の幸せのために奉仕する、人間に好都合な存在でしかありません。しかし、聖書の神はまったく逆です。聖書の神は、私たちの願いどおりに動いてくださる便利な神ではありません。私たちの方が神に従って生きることを求められる、王の王、主の主なる神です。この箇所で驚くことは、悔い改めて唯一まことの神を受け入れるどころか、自分たちに都合のいい神を守ろうとする人の姿です。そんなペリシテ人のようになっていないか、自らの信仰を吟味することも大切なことだと思います。

1サムエル 4章

「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。』」(3節)

イスラエルの人々はペリシテ人に敗れた時、悔い改めて神に立ち返ることもできました。しかし、神のみこころを求めるどころか、自分たちの意見を出し合い、契約の箱を魔法の箱のようにもってきたら幸運をもたらすことができると結論を出しました。その結果、無残にも大敗北を喫し、契約の箱も奪われました。彼らが神の臨在を必要としていたことは確かです。しかし、彼らの方法は間違っていました。聖書は言います。

「…自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6口語訳)

※ 本日も10時から12時まで、「クリスチャンの生活と証コース」が栄シャロームでもたれます。(婦人会は合流)申し込み、登録は不要です。自由にご参加ください。

1サムエル 3章

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(10節)

少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。

「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」

神はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神様がよく語られる場所は、主の宮である教会です。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

サムエルのように、

「お話しください。しもべは聞いております。」

という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができます。

1サムエル 2章

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(30節)

祭司エリの子供たちは、神の聖なるものを扱う役割でした。しかし、その職を軽視しました。エリはそんな息子たちを祭司として用い続けました。エリの言い分もあると思いますが、神に対する軽視があったと言われても仕方ありません。神はエリに言いました。

「わたしを軽視する者は、こちらでも軽視しよう。」(LB)

私たちは神を軽視していないでしょうか?キリスト教会を軽視していないでしょうか?礼拝を軽視していないでしょうか?キリストの十字架を軽視していないでしょうか?神のことば、聖書を軽視していないでしょうか?エリもエリの子供たちも、神を軽視したことに悲劇がありました。使徒パウロも警告しています。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」(ガラ6:7)

1サムエル 1章

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(18節)

いつまで神に個人的な願いを祈り続けるべきでしょうか。合理的に考えれば、「一度祈れば、もう祈る必要はない。」となるかもしれません。しかし、聖書はそう教えていません。そもそも、私たちが願う前から神は私たちの願いを知っています。ですから、祈りは神に願いを知らせること以上に意味があります。いつまで祈り続ければいいのでしょうか?ハンナが祈りを終えた時、彼女の顔は以前のようではなかったとあります。この確信を得るまで祈る必要があります。神の答えが私たちが願っていたことと同じとは限りません。しかし、祈った後の私たちの顔は、ハンナと同じように、もはや以前のようではありません。

2コリント 13章

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13節)
聖書の神は、三位一体なる神です。唯一の神ですが、子なる神キリスト、父なる神、聖霊なる神の三つの位格があります。このことを知的に理解することができないために、多くの学者は否定しようと努力してきました。しかし、聖霊なる神は、はっきりとこの祈りのことばを使徒パウロに書き記させました。私たちが持つ知性で把握することが出来ないからと言って、神のご性質が変わることはありません。神は神であり、三位一体なる神です。コリントの教会に対して、パウロは厳しい言葉を並べてはいましたが、恵み、愛、交わりという三つを一つとしてまとめているところに、教会のあるべき姿を教えられます。今日は主の日。父、子、聖霊の三位一体なる神を礼拝し、主の恵み、愛、交わりで教会が一つにされますように。
>虹が出た日
先週水曜日は、まだ今回の大雨の期間の真っただ中でしたが、夕方出先から帰る途中の車中窓から大きな大きな七色の虹が見えました。慌てて夫に連絡し、外を見るようにといったのですが、ほんのわずかな時間しか出ていなくて夫が外に出た時には消えてなくなっていたようです。残念だったね、でもほんとに大きな虹だったね、と話しつつ、次の予定のために長男を駅に送ろうとして外に出たら、また大きな虹の橋が空いっぱいにかかっていました。再度夫に連絡し、今度は写真におさめることができました。教会の上にかかっている虹。それを見ただけで神様の愛の大きさを感じました。私たちには理解できないこと、やりきれない思い、今後への不安など心の中に絶えず戦いがあると思います。でも、ノアに約束の虹を見せてくださった神様は、すべてを超えて偉大なお方。善であり、愛の源です。嵐に目をとめ、沈みかけた私たちをその全能の御手で救い出してくださるお方です。神様の偉大さに目を向け、前を向いて今週も歩んでいきましょう!皆さんの祝福を祈ります。(小山晶子牧師夫人)
※ 本日の第二礼拝後13時よりTOV会(男性会)が開かれます。

2コリント 12章

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神様は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神様はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神様の力が輝くと言います。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されると言います。マイナスは必ずプラスになります。

2コリント 11章

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(29節)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手に激しく怒らずにいられるでしょうか。」

この表現に使徒パウロの教会に対する思いを見ることができます。いや、使徒パウロに与えられた神様の教会に対する思いを見ることができます。教会は、キリストの花嫁だという箇所があるように、神様にとって教会と言うのはあってもなくてもいい存在ではありません。西洋の個人主義の影響で、信仰の個人的側面が過度に強調され、地域教会を過小評価する傾向が強くなっていますが、それは、神様の思いではありません。

「主よ、あなたの教会を大切にできますように。」