1サムエル 30章

「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(6節)

ダビデは人間的な思いで、ペリシテ人に身を委ねてしまい、イスラエルに敵対して戦いに出なくてはいけないというところまで追い込まれてしまいました。神の憐れみによって、彼らはイスラエルの敵とならずにすみましたが、自分たちの町はアマレク人の略奪にあってしまいました。彼の仲間たちはそんなダビデについに愛想をつかして、彼を殺そうとしました。まさに、どん底をダビデは経験しました。しかし、ダビデはこのどん底の状態で神を見上げることができ、神からの力と導きを受けることができました。神は時として、私たちがどん底の状態に陥ることを許されます。私たちが神以外の何かに依存しようとする時、神は私たちが神以上に信頼しているものを取り除かれます。

「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(口語訳)

1サムエル 29章

「すると、ペリシテ人の首長たちは言った。『このヘブル人は何者ですか。』」(3節)

ペリシテ人アキシュと共にイスラエルとの戦いに出てきたダビデたちを見たペリシテ人の首長たちは言いました。

「これらのヘブルびとはここで何をしているのか。」(口語訳)

ペリシテ人は神に敵対していた人々で、ダビデたちがいるべき側ではありませんでした。ダビデは人間的な思いで敵の中に身を委ねてしまいました。榎本師はこう言っています。

「よく日本の社会運動家の先駆者はほとんどキリスト者であったと言われる。ところが、彼らのほとんどは教会にあきたらず、教会から出て行った。・・・出て行った彼らはどうであったか。今日の社会運動界を見るとき、彼らやその流れをくむ者のほとんどはもはやその指導力を失い・・・キリスト者は頑固なまでキリスト者であるところに今日におけるキリスト者の存在の意義がある。」

1サムエル 28章

「それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、」(6節)

サウル王の問題の一つは待つことができなかったということです。最初の失敗も、サムエルを待つことができなかったことが原因でした。今回も、主が何も答えてくださらないと待つことができずに、霊媒に走ってしまいます。聖書は霊媒や占いを禁じています。それは、人を滅ぼすものだからです。サウル王は霊媒に頼った結果、希望をも失ってしまいました。サウル王はいつも自分で何とかしようと、神の時を待つことができませんでした。それが彼を滅びの道へと進ませてしまいました。ユージーン・ピーターソンは、こんなことを言っています。

「効果的になるためには、祈りがまず最初に私たちがすることです。最後ではありません。」

今日は主の日。まず、神の時があることを認め、主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCは講壇交換。横須賀クリスチャンセンター(http://yokosukachristiancenter.jimdo.com)の芳三容子先生が第一から第三までメッセージされます!

1サムエル 27章

「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。』」(1節)

ダビデの失敗は、神ではなく、自分自身に語りかけたことです。結局、彼は混乱し、間違った結論を出してしまいます。彼は敵の陣地で暮らすことを決断してしまうのです。聖書は言います。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(ピリピ4:6共)

私たちは「すべてのこと」を誰かでも、自分でもなく、まず、神に打ち明けることが大事です。神以外のところにまずもっていくならば、混乱が起こります。まず、神に、すべてを打ち明けているでしょうか?

1サムエル 26章

「しかしダビデはアビシャイに言った。『殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。』ダビデは言った。『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。」(9,10節)

ダビデは再びサウル王に復讐するチャンスが来ました。しかし、彼は自分の手で復讐することを選びませんでした。神様に委ねました。これが聖書が教えている姿勢です。ローマ書12章にこう書いてあります。

「愛する皆さん。決して自分で復讐してはいけません。復讐は神様に任せなさい。なぜなら、神様が『当然報復を受けなければならない人には、わたしが報復する』と言っておられるからです。」(19節LB)

特に神が油注がれた指導者を、私たちが裁くべきではありません。

「教師は、格別きびしいさばきを受ける」(ヤコブ3:1)

とあるように、生ける神の手の中にあります。

1サムエル 25章

「今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」(17節)

ナバルという非常に裕福な実業家がいました。彼は

「けちで頑固で、行状もよくない」(3節LB)

人物でした。そんな彼の一番の問題は、誰も彼と話したがらないということでした。つまり、彼に『聞く耳がなかった』ので、誰も彼に話をしなくなってしまったということです。まさに「裸の王様」状態だったのです。しかし、彼の妻のアビガイルは違っていました。彼女は、若者のひとりの助言に耳を傾け、事の重大さを知り、速やかに対応をしました。私たちは「ナバル化」しないためにも、謙遜に他者の忠告を聞く耳を持つことが大切です。何よりも、聖書の御言葉を聞く耳を持つ必要があります。

1サムエル 24章

「彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」(6節)

サウル王はダビデを殺そうと捜していました。ダビデはサウル王を自分の手で殺すことができる機会が訪れました。しかし、ダビデはそうしませんでした。『砕かれた心の輝き』(三人の王の話)の本の中で、その理由をダビデはこう語ります。

「彼がしたことをわたしが真似るより、殺されたほうがましだ。王のようにわたしがなるより、王に殺されたほうがよい。結局は彼をおかしくさせた手段を、わたしは選ばない。つまり、決して槍を投げない。憎しみをぶつける先を求めない。わたしは決して復讐しない。今もしないし、今後も絶対にしない。」

サウル王のように憎しみに動かされるなら、自分もまたサウル王のようになります。

1サムエル 23章

「ダビデは言った。『ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。』主は仰せられた。『彼らは引き渡す。』」(12節)

ダビデは、自分たちのいのちをかけてペリシテ人と戦い、ケイラの人々を救いました。その知らせを聞いたサウル王がダビデを捕まえにケイラに来ることになりました。常識的に考えると、自分たちを救った英雄を裏切るようなことはしないと思ってしまいます。ダビデの賢かったことは、たとえそう見える状況であっても神に尋ね求めたということです。神様はケイラの人々が裏切ることを伝えたので、ダビデは逃亡することができました。祈り求める必要がないほど答えが明白な時ほど、私たちは気をつける必要があります。自分で勝手に結論づけずに、たとえ順調に見えても、常に主に祈り、主の御言葉を待ち望む姿勢が大切です。

1サムエル 22章

「また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」(2節)

ダビデのもとに集まってきた人たちは、問題を抱えた人、不満を抱いていた人たちでした。しかし、彼らがダビデの勇士となったことを覚えたいと思います。コデイロ先生は言います。

「私たちの周りには、若いパウロや短気なペテロや自信のないテモテのような、あるいはプリスキラやマルタ、ルデヤのような人たちが大勢います。しかし、ドリームリリーサーの心を育てない限り、私たちがこうした人々に目を留めることはありません。こうした偉大な可能性を持った人たちは、しばしば見栄えの悪い包みにくるまれていたり、格好の悪い箱に入っていたりします。彼らは問題だらけのように見えますが、ドリームリリーサーはそのような包み紙の中にあるものを見通すことができるのです。」

1サムエル 21章

「それは何よりです。私に下さい。」(9節)

箴言29章25節にこういう箇所があります。

「人を恐れるとわなにかかる。」

サウルを非常に恐れたダビデはゴリアテを倒した剣を、

「それにまさるものはない。それをください。」(新共同訳)

と受け取ります。しかし、皮肉にも、剣を手にしたダビデに不安がつきまといます。榎本師は言います。

「彼の心が神から物に移ったとき、神にではなく、物に平安の根拠を求めたとき、彼は不安のとりこになってしまったのである。」

箴言は続けてこう記します。

「しかし主に信頼する者は守られる。」

榎本師は言います。

「しっかりと神により頼もうとするとき、私たちは何ものをも恐れない。しかし、ひとたびその目がこの世の物に移り、ゴリアテのつるぎを『それにまさるものはない』と思うようになるとき、その日私たちは不安のとりこになってしまう。」

今日は主の日。主に信頼し、共に礼拝を捧げましょう。