1列王記 7章

「ソロモンは自分の宮殿を建て、十三年かかって宮殿全部を完成した。」(1節)

ソロモン王は神のために神殿を建築しました。6章38節には

「これを建てるのに七年かかった。」

とあるように大事業でした。その後、彼は自分のための宮殿も造ります。それは倍近くの一三年かかったとありますが、書いてある内容を観察すると、神殿の方が大事業だったことが分かります。つまり、ソロモン王は神のための神殿をそれほど緊急、重要な事業として成し遂げていたという事が分かります。やがてイスラエルの人々がバビロン捕囚から戻ってきた時、預言者ハガイは言いました。

「おまえたちは多くを望んでも、少ししか得られない。それを家に持ち帰っても、わたしが吹き飛ばす。結局、なくなってしまうのだ。なぜか。神殿が廃墟のままなのに、心にもかけないからだ。わが家をよくすることばかりに気を配っている。」(ハガイ1:9LB)

神を第一とすることができますように。

※ 本日のSSCの祈祷会は、武道館でもたれるセレブレーション・オブ・ラブに合流するため、お休みです。

1列王記 6章

「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。」(12節)

神殿を建てている間にも、神はソロモン王に重要な現実を伝えました。それは、建物を建てることよりも神との関係の方が重要ということです。神のために建物を建てることは素晴らしいことですが、人は建物を建てることによってではなく、神との関係によって祝福されます。これは何度も思い起こす必要があります。神のためにいろいろなことをすることができますが、イエス・キリストとの関係が最優先です。親が子供にどんな高価なものを与えても、親子関係をないがしろにしたら意味をなさないように、神のためにどんな事業をすることよりも、イエス・キリストとの関係が重要です。

1列王記 5章

「どうか、私のために、レバノンから杉の木を切り出すように命じてください。私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。私はあなたのしもべたちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいないのです。」(6節)

ソロモンは「神のために神殿を造るのだから無料で奉仕しなさい」とは言いませんでした。しかも、「あなたが言われるとおりの賃金を払います。」と、支払いを惜しむこともありませんでした。なぜなら、神のために神殿を造ることに対してそれだけの価値を認めていたからです。私たちは価値を認めているものに対して、その価値に見合うものを支払うものだと思います。私たちは日々、何に価値を見いだし、何に支払いをしているでしょうか。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)

1列王記 4章

「ナタンの子ザブデは祭司で、王の友。」(5節)

ソロモンの高官たちの様々な仕事のリストが並べられる中で、ナタンの子ザブデは、祭司という仕事だけでなく、「王の友」と挙げられています。彼の仕事の一つは、王の友であることだったと言うのです。キリストを信じる者も、「王の友」です。王の王、イエス・キリストの友だからです。イエス・キリストはおっしゃられました。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ15:15新共同訳)

王の王、イエス・キリストの友と呼ばれることは、なんという光栄、祝福でしょうか。イエス・キリストは、私たちを奴隷としてではなく、友として扱ってくださっているというのは驚くべき内容です。特別な仕事ができなくても、イエス・キリストの友として時間をとるだけでも意味があります。

1列王記 3章

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(9節)

神はソロモン王に言いました。

「何なりと望むものを求めよ。与えてやろう」(5節LB)

彼はそれに対して、神の民を治めるための自分の経験や能力の不足を表明して、

「聞き分ける心」、

「判断力」(LB)、

「理解する心」(NKJV)

を求めました。原語は

「聞く心」。

人々に聞く心、

神から聞く心

という意味。神はソロモンが自分のことではなく神の民のことを考えた答えに喜び

「望まなかった財産と名誉も授けよう」(13節LB)

とおっしゃられました。私たちも、まず、自分のことではなく、神の国を求める姿勢をもちたいと思います。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

1列王記 2章

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2節)

ダビデの時代に、「復活」という教えはありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。ですからダビデはただ、

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」

とだけ言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、私たちには栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいます。(Ⅱコリ5:8参照)私たちは、

「子供たちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」

と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあります。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。

「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

今日は主の日です。

※ 本日のSSCは、児童祝福式がもたれます。

1列王記 1章

「一方、ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう。』と言って、野心をいだき、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。」(5節)

アドニヤは、老いた父、ダビデ王に代わって、自分こそ王位につくべきだと考えました。確かに、彼は周りから見てもふさわしい人物のように見えました。しかし、新共同訳では、彼は「思い上がって『わたしが王になる』と言い」と訳しています。聖書は私たちが思い上がって、自分で自分を高めないように警告しています。「みな、謙遜になって互いに仕え合うべきです。神は、高慢な者には敵対し、謙遜な者には恵みを与えられるからです。あなたがたは、神の力強い御手の下で自分を低くしていなさい。ちょうどよい時に、神はあなたがたを高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

ガラテヤ 6章

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(1節)

「メッセージ」という訳では、1節をこう訳しています。

「友よ、創造的(クリエイティブ)に生きなさい。もし、誰かが罪に落ちたなら、赦しつつ回復させなさい。あなたの批判的なコメントは自分自身のためにとっておきなさい。あなたがその日が終わる前に必要かもしれないからです。」

つまり、聖書的に「御霊の人」、「霊的な人」は、自分の弱さを知っている人であり、批判的にならずに、赦しの心をもっている人だと言います。ガラテヤの教会の人で、過ちに陥った人がいたのだと思われます。パウロはその人を責めるのではなく、聖霊の実である柔和をもって、その人を受け入れ、回復させなさいと言いました。これが、「御霊の人」の集まりである、教会のあるべき姿です。

ガラテヤ 5章

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(15節)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4章

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(6節)

「神」が主語なので、「神は」と訳したということだと思いますが、日本語としては、「神を『アバ、父』と呼ぶ」と訳したほうがすっきりします。しかし、聖霊が「アバ、父」という祈りの言葉を与えてくださるという意味ならば、この訳はこの点を強調していると考えられます。聖霊は、「アバ、父」と叫ばせる、私たちを祈りに導かれるお方だということです。「祈り」は、聖霊が私たちの内に住まわれている証拠です。聖霊が私たちの心の中に住んでおられるから、私たちの内側から祈りが沸きあがってくるということです。それは、「洗練された言葉」として湧きあがることもあれば、日本語としては意味をなさない、叫びでしかないこともあります。大事なことは、聖霊に導かれて祈ることです。