2列王記 16章

「アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。」(10節)

アハズ王は、アッシリヤ帝国の力の背後に神々の存在があると考えました。それで、アッシリヤ帝国と同じ神々を礼拝すればイスラエルの国も繁栄すると短絡的に考えます。悲しいことに、祭司たちもそれに従い、生ける神の神殿はアッシリヤ帝国の神々のために変えられてしまいます。問題の根底にあったのは、神を神とせず、自分の益のために利用できるかどうかとしか見ていなかったという姿勢です。そのような姿勢だったから、自分の思い通りにならなければ、簡単に神を乗り換えてしまったのです。十字架にかかられた生ける神は、私たちの思い通りにはなりません。神は神であり、人は人です。

2列王記 15章

「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。」(3節)

15章は、ユダとイスラエルの王たちの事跡が次々とわずかな言葉によってまとめられています。一人一人の人生には様々な出来事があったはずです。しかし、どんな王の人生も数行で片付けられています。榎本保郎師はこう言います。

「しかし、聖書はそうした王たちの事跡を記しながら、最後に必ず彼が神に対してどのように生きたかを記している。このことは私たちの人生にとって何が最も重要なことであるかを示しているのではなかろうか。」

人生は結局のところ、私たちが神に対してどのように生きたかが問われます。さらに榎本師はこう言います。

「しかし、そうした生き方は見よう見まねによることが多い。」

アザルヤ(ウジヤ)は主の目にかなうことを行いましたが、父が行なったとおりにと聖書は言います。私たちの生き様が、次世代に影響を与えることを心にとめたいと思います。

今日はクリスマス特別礼拝。共に主のご降誕をお祝いしましょう。

※第二礼拝の後、祝会をもちます。第三礼拝は、お休みです。

2列王記 14章

「あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」(10節)

ユダの王、アマツヤはエドム人に勝利して、心が高ぶり、イスラエルの王ヨアシュを挑発し、争いをしかけました。しかしその結果、ユダはイスラエルに打ち負かされてしまいます。挑発したり、争いをしかけたりすることは、そもそも聖書的ではないということです。もっとも、霊的な勝利を体験する時ほど、私たちは気をつける必要があります。なぜなら、自分の力で世界に勝利できるような感じがしてしまうからです。しかし、真理は、キリストを離れては、私たちは霊的な戦いに勝利することはできません。得意になって、火遊びすると大変な結果を招くことになるというのが、聖書が教える教訓です。

※ 明日は、クリスマス特別礼拝。礼拝後は祝会。第三礼拝はお休みです。

2列王記 13章

「ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」(18節)

「地面を打ちなさい」と言われて、何度も地面を打つ人は稀だと思います。三回で止めたイスラエルの王に対してエリシャは怒って言いました。

「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」

この時代、戦いが一度や二度で決着がつくことは稀でした。決定的に勝利するためには、五回、六回、勝ち続ける必要がありました。イスラエルの王は、そのことを知りながらも、三回で止めてしまったのです。

「この位でいい」

と。

「これ以上は続けられない」

と。

しかし、主は、

「やめてはいけない」、

「打ち続けなさい」

と言います。

2列王記 12章

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行なった。」(2節)

ヨアシュ王は祭司エホヤダが生きている間は、神を喜ばせようと一生懸命に努力しました。しかし、歴代誌を見ると、

「エホヤダが死んで後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。」(2歴代誌24:17)

ヨアシュは傲慢になり、自分にひれ伏す高官たちに操られてしまいます。その時、祭司エホヤダの子ゼカリヤに聖霊が臨みました。

「なぜ神様の戒めに背いているのか、神様は、そのわけを知りたいと言っておられる。こんな状態では、何をしても失敗に終わるだけだ。」(20節LB)

傲慢になったヨアシュ王は、彼に対して愛と忠誠を尽くした祭司エホヤダの子ゼカリヤの言葉にも耳を傾けられなくなってしまいました。

「神は高慢な者を退け、謙遜な者に力をお与えになります。」(ヤコブ4:6LB)

2列王記 11章

「こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、『王さま。ばんざい。』と叫んだ。」(12節)

ユダの王、アハズヤが死んだ時、その母、アタルヤは、王の一族をことごとく滅ぼして、自分が王となりました。王の一族というのは、神様が約束されたダビデ王の子孫という意味です。もし、本当に王の一族が全滅していたら、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言は成就することはありませんでした。ところが、一歳だったヨアシュは、叔母のエホシェバに助け出されました。その後、六年間、身を隠していましたが、七年目に、祭司エホヤダが、ダビデの子孫、ヨアシュを王と宣言しました。どんなに悪魔が邪魔をしても、神様の約束は必ず成就します。

2列王記 10章

「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。」(31節)

エフーはイスラエルの国における宗教改革を徹底的に行った人物だと考えられていました。彼はイスラエルにバアル宗教を導入したイゼベルをはじめ、バアル礼拝者を一掃しました。しかし、聖書は言います。

「ところがエフーは、真心から神様に従おうとはしませんでした。」(LB)

エフーは確かに神様に従って、イスラエルの中にあった悪を一掃しました。しかしチャック・スミス師は、エフーはこれらを政治的な動機でしていただけで、霊的な動機ではなかったと指摘します。エフーの動機は、神様に対する畏れではなかったと言うのです。今も昔も、宗教戦争という名目で利権の戦争が世界中で起こっています。私たちは表面的な部分で判断しないように気をつける必要があります。

神様は心を見ます。

2列王記 9章

「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」」(22節)

「元気か?」と訳された言葉の原語は「シャローム」。あいさつのことばですが、「平和、平穏無事」という意味があります。ですからエフーは「何が元気か!」ではなく「何が平和か!」と言いました。F・B・マイアーは、こんなことを言っています。

「イゼベル的な不貞や色香をゆるすかぎり、真の平和はありえません。イゼベルはその奸計と容色とをもって虚飾の世界に君臨しました。けれども、その魅力がいかなるものであろうとも、真の平和が来る前には、それは吹き飛ばされなければなりません。」

神に油注がれたエフーによってイゼベルがつくりあげた偽りの平和は吹き飛ばされました。そして今、平和の君、イエス・キリストの十字架によって本物の平和はもたらされます。

2列王記 8章

「彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。『王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。』」(5節)

エリシャは、子どもを生き返らせた婦人に、イスラエルに飢饉があるので家族を連れて疎開するように言いました。飢饉が終わり、イスラエルに戻り、王に自分の家と畑を返してくれるように願い出ると、

「たまたま王は、エリシャのしもべゲハジと話している最中でした。」(4節LB)

ちょうどゲハジがエリシャが子ども生き返らせた時のことを話していた時に、この婦人が王に願いに来たのです。その結果、全部返していただくことができました。神様の導きに従って行くならば、「たまたま」、「ちょうどそこに」という神の摂理を体験することができます。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

2列王記 7章

「さて、町の門の入口に四人のらい病人がいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」(3,4節)

「愛する友よ。この書は主として信者への教訓として書かれたものだが、もしあなたが救われていないならば、私は心からあなたに同情し、あなたの祝福になることを語りたいと思う。聖書を開いて、らい病人の物語(Ⅱ列王記7章)を読んでいただきたい。なんと彼らの状態はあなたのそれと似ていることか。もしあなたが現在の所にとどまっているならば、あなたは滅びなければならない。…不機嫌に失望の色を浮かべじっと座っていても、破滅が来た時、だれもあなたを顧みるわけではない。…しかし、主の側に立って、主を求めるならば、あなたは主を必ず見いだすということを私は保証したい。イエスはご自分のもとに来た者を捨てられたことがない。」(スポルジョン)

イエス様の中に希望があります。