1歴代誌 16章

「ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。」(2節)

まず神に礼拝をささげてから、様々な働き、奉仕、ミニストリーがあります。この順序が狂ってしまうときに問題が起きてきます。そもそも、神に礼拝を捧げることなくして、人々を祝福することはできません。

「すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神様から来る」(ヤコブ1:17LB)

からです。まず、神の国と神の義を第一に求める中で、私たちは祝福の基となれます。「祝福する」と訳されるギリシア語は、「良い」と「言葉」が組み合わされた単語です。「感謝する」とも訳されます。使徒パウロはクリスチャンの言葉に言及してこんなことを言います。

「みだらな会話や下品な冗談は、あなたがたにふさわしくありません。むしろ、互いに神の恵みを心にとめて、感謝しなさい。」(エペソ5:4LB)

祝福のことばを語る者となりますように。

1歴代誌 15章

「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」(13節)

「あなたがた」とはレビ人のことです。契約の箱は、レビ人が運ぶことに決められていました。つまり問題の根底にあることは、

「いるべき場所にいるべき人がいなかった」

ということです。私たちは今、いるべき場所にいるでしょうか?

また、神は創造主ですから、私たち被造物が自分たちの都合の良い方法で関わることはできません。神の方法で近づかなければなりません。神の方法は聖書の中に記されています。私たちが神に近づくために新しく神が与えてくださった方法は、

イエス・キリストを信じる

ということです。イエス・キリストがすでに成し遂げてくださった十字架の御業に信頼するということです。そして十字架の御業は、すでに完成しました。

1歴代誌 14章

「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、彼の王権がいよいよ盛んにされているのを知った。」(2節)

この箇所からダビデのリーダーシップについて学ぶことができます。彼はまず、

「主が彼を…立て」

とあるように、自分のリーダーシップは主からと意識していました。

「神によらない権威はどこにもありません。」(ローマ13:1LB)

と認識していたのです。ダビデはまた彼のリーダーシップは、

「主の民イスラエルのため」

と意識していました。つまり、仕えるための権威だと認識していたのです。イエス・キリストはこう言いました。

「あなたがたも知っているとおり、この世の王や高官は、支配者として権力をほしいままにしています。しかし、あなたがたの間では違います。偉くなりたければ、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:42,43LB)

世界は、そのような謙遜なリーダーが必要とされています。

1歴代誌 13章

「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(3節)

「神の箱」、それは神の臨在の象徴でもありました。しかしサウルの時代、それはほったらかしにされていました。神はサウルを王として選び、サウル王はイスラエルの国を建国し、権威者となりました。しかし、彼にとって「神の箱」などどうでもよかったのです。彼にとっての神は、その程度の存在だったのです。「あってもなくてもいい」、その程度の信仰だったのです。私たちはどうでしょうか。私たちにとって神に礼拝を捧げることは、どの程度の意味があるでしょうか。礼拝を捧げても、捧げなくてもいい、その程度のものでしょうか?神に礼拝を捧げることを顧みずにきてしまったならば、今、ダビデたちのように心を一新(考え方を新たに)しようではありませんか。まず、神の国と神の義を求めようではありませんか。

1歴代誌 12章

「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。」(22節)

ダビデが人を集めたということではありませんが、彼のもとに人が集まってきたと言います。初代教会も同じ現象が起こりました。

「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47新共同訳)

第一に、神が人を集められるということだと思います。

第二に、「神を賛美していたので」とあるように、神を賛美する人の周りに、人は集まってくるというメッセージもあると思います。ダビデも、詩篇の作者としても有名なように、神を賛美する人でした。どんな状況でも神を賛美することを選ぶならば、日に日に、人々が私たちを助けるために私たちのもとに来るのではないでしょうか。

今日は主の日。主に心からの賛美と礼拝を捧げましょう。

1歴代誌 11章

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(10節)

イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権で、預言者サムエルがダビデに油を注いだ時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、口先だけではなく、自分自身が日々、イエス・キリストを王として生きていく必要があります。

1歴代誌 10章

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(13,14節)

サウル王の一番の問題、それは、主に尋ねなかったことだと聖書は言います。祈りはキリスト教の核心です。なぜならば、一番大切なことは神との関係を育むことだからです。日々の生活の中で、「主よ、導いてください」と祈りによって尋ね求めることは本質的に大切なことです。そして、聖書のみことばに耳を傾け、その箇所を黙想します。「主よ、この箇所から、あなたは私に今、何を語ろうとしているのでしょうか?」と思い巡らします。主は、言われます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

1歴代誌 9章

「この人々は歌うたいであって、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、自由にされていた。昼となく夜となく彼らはその仕事に携わったからである。」(33節)

神に賛美を捧げる人々は、昼となく夜となく神に賛美を捧げるように他の仕事から自由にされていました。LBではこう訳しています。「歌手たちは、みな優秀なレビ人で、エルサレムの宮に住み、四六時中、その仕事につきました。彼らは特に選ばれた者たちで、ほかの責任はいっさい免除されていました。」つまり、それほど神に賛美の歌を捧げることが重要視されていたことが分かります。彼らはもちろん目に見える聴衆がいなくても、ただ神に賛美の歌を歌うことを大切にしていました。目に見える聴衆がいなくても、ただ神に最高の賛美を昼となく夜となく捧げたというのです。私たちも、誰も私たちの賛美を聴く人がいなくても、ただ神に、一生懸命賛美を捧げることに意味があります。

1歴代誌 8章

「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。」(34節)

8章はベニヤミン族の家系、サウル王の家系が記されています。サウル王は戦死し、彼の家系で唯一残るのがメリブ・バアル、すなわち、メフィボシェテです。ダビデとヨナタンの友情のすばらしさは、ヨナタンの死後、メフィボシェテに注がれました。そして、彼の子孫は祝福され、発展していきます。ここに神の恵みを見ます。メフィボシェテの祝福は、ただ、その父ヨナタンのゆえでした。同じように、私たち人類の祝福はみな、イエス・キリストにかかっています。イエス・キリストのゆえに、私たちの人生は祝福へと変わるのです。ですから、イエス・キリストを信じて、神の子として新生することがとても重要なのです。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)

1歴代誌 7章

「彼女はみごもって男の子を産んだ。彼はその子をベリアと名づけた。その家がわざわいのさなかにあったからである。」(23節)

ベリアとは、災いという意味です。ベリアの父、エフライムの二人の子は、律法を犯して殺されてしまいます。その反省も兼ねて、生まれた子に「災い」とつけたのです。興味深いことは、この子孫から、モーセの後継者、ヌンの子ヨシュアが生まれるのです。神は大きな罪を犯した者の子孫を用いて、重大な任務につかせたのです。私たちは弱く、失敗を犯しやすい者です。しかし、キリストは、私たちが悔い改めるならば、私たちを赦し、もう一度チャンスを与えてくださいます。キリストは、ご自身のもとに来られる者たちに言います。

「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」(マタイ9:2口語訳)

失敗は終わりではありません。神はセカンドチャンスの神です。キリストの中でマイナスはプラスになります。