2歴代誌 17章

「彼らはユダで教えた。すなわち、主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」(9節)

ヨシャパテは、偶像を取り除いただけではなく、神のみことばを教えました。国中を巡回し、神の御言葉を人々に教えました。人々の信仰は、神のみことばの教えによって建て上げられていきました。教会の中心的な働きも、聖書のみことばを教えることです。パウロは若いテモテに言いました。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:2-4新共同訳)

教会は、聖書の教え、健全な教えを、時が良くても悪くても、民の間で教え続ける責任があります。

2歴代誌 16章

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(9節)

主は、今も、あまねく全地を見渡しておられます。主は、ご自身の力をこの地にあらわしたいと願われておられるのです。イエス様がこの地上におられた時に、たくさんの御業をなされたように、今も、私たちの世界に、ご自身の御業をなしたいと願っておられるのです。神様はなぜか、人を用いてご自身の力を現すことを選ばれます。ですから、心がご自分とまったく一つになっている人を探しているのです。神様と心を一つにするためには、へりくだって神のみことばを読む必要があります。神の心を、自分の心とするように、聖書を読む必要があります。少年サムエルが、

『しもべは聞きます。お話しください』(Ⅰサムエル3:10口語訳)

と祈ったように、いつも主のみことばに耳を傾ける姿勢が大切です。

2歴代誌 15章

「彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。」(15節)

LBでは、

「神様を慕い求め、ついに神様と出会うことができたので」

と訳しています。聖書が私たちに教えていることは、私たちが神様を心から求めるならば、私たちは神様に出会うことができるということです。賛美の中で、祈りの中で、また、神のみことばである聖書を読む中で、私たちは生ける神、イエス・キリストと出会うことができます。

「ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示された」。

新約聖書にもこう書あります。

「神様のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神様を求めれば必ず報いられることとを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

主を慕い求めるならば、主はご自身を示されます。

2歴代誌 14章

「アサはその神、主に叫び求めて言った。 『主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。』」(11節)

無限に1を足しても、無限に100を足しても変わりはありません。私たちの神は無限の神なので、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも変わりはありません。大事なのは私たちが無限の神に拠り頼み、そのみ名によって歩んでいくかどうかということです。ですから使徒パウロはこう言いました。

「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

2歴代誌 13章

「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」(18節)

北イスラエル王国は、南ユダ王国をいわゆる挟み撃ちにしました。14節には、

「戦いは前後から迫っていた。」

とあります。まさに、八方ふさがり状態でした。しかし、天は開いていました。彼らが主に叫び求めた時に、神が介入されました。同じように私たちの人生にも、挟み撃ちにされているような、八方ふさがりの状況があります。しかし、天は開いています。私たちも主に叫び求めることができます。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)

「主よ、どんなに行き詰っても、天を見上げ、あなたを呼び求め、あなたに拠り頼んでいくことができますように。」

2歴代誌 12章

「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12節)

聖書はへりくだることの大切さを何度も語っています。使徒ペテロもこう言っています。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Ⅰペテロ5:5)

レハブアム王は、王位が確立し、強くなるに及んで、神から離れていってしまいました。高ぶりは恐ろしいものです。祈らなくても、聖書を読まなくても、教会にいかなくても自分で何とかやっていけると思い始めるとき、人は、ずれていってしまうのだと思います。へりくだって、

「イエス様あなたが必要です。今日もあなたのみことばが必要です。」

と、祈りつつ教会生活を大切にしていくことが大切です。

「ユダにも良いことがあったからである。」

という表現には希望があります。へりくだったとき、良いことがはじまります。

2歴代誌 11章

「実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」(14,15節)

北王国のヤロブアム王は、神が任命した祭司たち、レビ人たちを軽視しました。聖なるもの、神の領域を侵して、自分勝手に判断し、自分の都合のよいように、「自分のために祭司たちを任命し」ました。このような自分勝手な信仰姿勢は、ヤロブアム王のようにどんどんとずれていきます。聖書が私たちに教えていることは、このようなヤロブアム王のように自分勝手に判断するのではなく、神のみことばである聖書に従って判断することが大事だということです。聖書が何と言っているか、聖書を中心とした信仰姿勢が求められているということです。今日は主の日、共に主を礼拝し、主の御言葉に耳を傾けましょう。

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2歴代誌 10章

「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、かつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を主が実現するために、神がそうしむけられたからである。」(15節)

私たちは、レハブアム王はなんと愚かな事をしたのだろうと思います。しかし聖書は、実はこれは神がしむけられたことだったと言います。詳しくはⅠ列王記11:29-39に出てきます。つまり、問題の発端は彼の父ソロモン王にあったということです。私たちは、見えるところですべてを判断する傾向があります。しかし、物事はそんなにも単純でない場合が多いと思います。その背後にある意味を見落としてはいけないと思います。「神がそうしむけられた」ということは、神が許可されたということです。神は私たちが神に立ち返るために、あえて、私たちが問題にあうことを許可されるということです。つまり、問題が問題ではなく、私たちがその問題をどうするかが問題です。

2歴代誌 9章

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。」(6節)

シェバの女王は、うわさ以上にすばらしいソロモンの知恵と事績に圧倒されました。しかし、イエス様は、こうおっしゃられました。

「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)

イエス様は、ソロモンよりもまさったお方です。私たちはイエス様のもとにシェバの女王のように地の果てから行く必要はありません。今、この時、この場所で、イエス様のもとに行くことができます。イエス様は死を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられます。

2歴代誌 8章

「すなわち、モーセの命令どおりに、毎日の日課により、これをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとに、これをささげた。」(13節)

聖書は「毎日の日課」を大事なこととして言及しています。「良い習慣は、第二の天性」と言われますが、毎日の日課として、聖書を読み、黙想し、祈ることができれば、必ず大きな力になります。ある研究家はこんなことを言っています。「一つのテーマについて一日に一時間ずつ時間を使い、それを五年間続ければ、その人はその分野のエキスパートになれるだろう。」私たちは毎日の日課として何に時間を費やしているでしょうか。日々、思い煩うことが日課になっていますと、不安のエキスパートになってしまいます。日々、感謝していたら感謝のエキスパートになれるでしょう。日々、みことばに耳を傾け、みことばのエキスパートになることが出来ますように。

※ 本日の婦人会はお休みです。