エズラ 2章

「歌うたいは、アサフ族、百二十八名。」(41節)

バビロンからエルサレムへの帰還者たちの名簿がこの章に記されています。指導者、氏族別の帰還者数、そして神殿を司る帰還した祭司、レビ人の数が上げられます。その中に、

「歌うたい」(LB)

が数えられています。アサフ族は、神に賛美の歌を捧げる役割がありました。ですから、エンターテイメントのための「歌うたい」という意味ではなく、神に賛美を捧げるための「聖歌隊」ということです。聖書がどれほど神に賛美の歌を捧げることを大切にしているかが分かります。礼拝の中で賛美の歌を神に捧げることは、してもしなくてもいいというレベルのものではなく重要なものです。聖歌隊がエルサレムへ帰還した最初の人たちに数えられていることを心に留める必要があります。まず、何よりも賛美の歌を捧げること、賛美が最前線であるべきであることを、聖書は何度も私たちに訴えています。

エズラ 1章

「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(5節)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、生活の基盤ができたバビロンから荒廃したエルサレムに戻る気にはなれませんでした。彼らの託された神殿の再建は、決して容易な事ではありませんでした。それでもなお、彼らを突き動かしたのは、

「神にその霊を奮い立たされた」

からです。この世界でキリストの教会を建てあげることも同じような状況だと思います。この世でキリストの教会を建てあげることは聖書が命じていることですが、容易なことではありません。私たちもまた、神に奮い立たされなければ成し遂げられません。彼らはまた6節にあるように物資的な援助、励ましもあったことがわかります。協力も必要です。
今日は東日本大震災から5年。被災地の方々を覚えて祈りましょう。

2歴代誌 36章

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(23節)

歴代誌とマタイの福音書の類似性を指摘する聖書学者がいます。歴代誌もマタイの福音書も系図で始まります。そして、歴代誌もマタイの福音書も神が王に権威を与え、主の民に属する者に使命(ミッション)を与えるというところで閉じられています。もっとも、マタイの福音書で神が権威を与えたのは、王の王、神の御子、イエス・キリストです。そして、私たちの使命(ミッション)はエルサレムに神殿を建てることではなく、あらゆる国の人々を弟子とするという神の御国をこの地上にもたらす働きです。

2歴代誌 35章

「彼は祭司たちを任命してその任務につかせ、彼らを力づけて、主の宮の奉仕に当たらせた。」(2節)


ヨシヤ王はないがしろにされていた過ぎ越しの祭りも祝うことを命じました。彼は祭司たちを任命し、

彼らを力づけて

任務につかせました。LBでは

激励して

と訳していますが、何らかの方法で彼らを励ましたと言います。

人はみな、励ましを必要としています。マーク・トウェインは、

たった一回励ましてもらうだけで、まる一ヶ月がんばれる

と言っていますが、励ましの力は計り知れません。宣教師であり探検家であったシュバイツァーはこんなことを言っています。

生きていると、心のともし火が消えそうになることがある。だが、誰かに優しい言葉をかけてもらうと、炎はふたたび燃えさかる。人はみな、自分を励ましてくれた人を思い起こし、その人に深く感謝しなければならない。」

私たちはみな励ましが必要です。心をこめて人を励ましましょう。

2歴代誌 34章

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」(21節)

ヨシヤ王は神を熱心に求め、ないがしろにされていた神殿を修復し始めました。その時、放っておかれていた聖書を見つけました。そして、聖書の教えから遠くはなれた自分たちの姿に愕然としました。時代は繰り返します。中世の暗黒時代、マルチン・ルターは聖書を学ぶ中で、ヨシヤ王と同じように聖書の教えから遠くはなれた教会の姿に愕然とし、宗教改革が起こりました。いつの時代も私たちは問われます。聖書をないがしろにしていないでしょうか。聖書を読み、聖書を学び、信仰と人生の規範として聖書に生きることを心がけているでしょうか。聖書は誤りなき神のことばです。

2歴代誌 33章

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(12,13節)
マナセ王は神に背を向け、神が忌み嫌うことを行い続けました。

10節にはこう記されています。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。」

行き着くところまで行ってしまったマナセ王は、バビロンへ引かれていきます。

しかし、そこで彼は神の前にへりくだり、悔い改めて神に祈りました。

驚くことは、神は彼の切なる祈りを聞き、彼にセカンドチャンスを与えます。

聖書は言います。

「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:31,32)

2歴代誌 32章

「そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。」(20節)
飛ぶ鳥を落とす勢いのアッシリヤ帝国の襲来は、エルサレムにいる人々を恐怖に陥れました。アッシリヤ王は、

「おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。」(10節)

と神を信じ、神にのみより頼もうとしていた彼らを嘲笑しました。

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」(イザヤ37:14)

ヒゼキヤ王は天に叫び求めました。

東日本大震災の原発事故で教会を失った佐藤彰師は言います。

「強大な国に飲み込まれそうになった風前の灯火のヒゼキヤは、祈りしかない、しかも自分独りの祈りだけでなく、イザヤに祈りをお願いした。すると、信じられないような国際情勢となった。」

今日は、主の日。共に主に祈り、礼拝を捧げましょう。

※ 本日の第三礼拝(18時から)の教会学校は、都合により、お休みします。

2歴代誌 31章

「彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的を果たした。」(21節)

ヒゼキヤ王は、

「その目的を果たした」

と記録されました。

彼は自分の人生の目的を果たしたと言うのです。

私たちもまた、そのように記録されたいと思わずにはいられません。

彼は自分の人生の目的を果たすために、二つの事をしたことがこの箇所から分かります。

一つは、「神に求めた」ということです。

私たちは、すべてのことにおいて神の助けが必要です。神に祈り求める姿勢がなければ、人生の目的を果たすことは出来ません。

二つめは、「心を尽くして行なう」ということです。

神を求めると言うことは、何もしなくていいということとは違います。神様から任された事を、誠実に、一生懸命励むこともまた大事なことです。LBでは、

「力の限りを尽くして励み、大きな成果をあげました。」

と訳しています。

2歴代誌 30章

「あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(9節)
LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「神様は、思いやりにあふれたお方ですから、もしあなたがたが立ち返るなら、そっぽをむいたままでおられることは決してありません。」

メッセージ訳では、最後の部分をこう訳しています。

「戻ってきなさい。そうすれば神様はあなたを両腕を広げて歓迎します。」

放蕩息子の帰りを待っていた父親のように、聖書が一貫して伝えている神様のイメージは私たちが立ち返るのを待っておられるお方です。
「しかし、ただ一つの望みが残っています。神様のあわれみは決してすたれない、ということです。(中略)神様の真実は限りなく、その恵みは朝ごとに新しくなります。」(哀歌3:21-23LB)