ヨブ記 4章

「あなたの望みはあなたの潔白な行ないではないか。」(6節)

ヨブの友人、エリファズのことばに、私たちが学ぶべき間違った考え方が出てきます。彼は言います。

「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(4:7-9)

エリファズのポイントは、

①神は全能で義なるお方。

②苦しみは人間の罪の結果。

③したがって、苦しみは罪の報い。

④ヨブが苦しんでいるのはヨブが罪人だから。彼が隠れた罪を告白したら、回復するはず。

しかし、ヨブ記の前提は、ヨブは正しい人であり、ヨブには問題がないということです。ヨブ記のテーマは「義人がどうして苦しむか?」ということなのです。エリファズの発言は、人間の知恵の限界を示します。自分が神でないことを認めることは大切です。

ヨブ記 3章

「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」(11節)

苦しみの中からヨブがだした疑問、それは、私たちの心の叫びかもしれません。どうして、今、ここに存在しているのか?はっきり言えることがいくつかあります。それは、

まず第一番目に、神がそう望まれたから私たちは今存在しているのです。

この世には、聖書的に言えば望まれないで生まれてきた人は一人もいません。神がそう望まれたから、みんな存在しているのです。

そして、第二番目に、神は一人一人に目的をもっています。

ヨブのように、自分の存在を否定したくなってしまった時、神のみことばに、耳を傾けましょう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

今、あなたが息をしていることには意味があると神は言われます。たとえ誰も自分の存在価値を認めてくれなくても、神の目にはあなたは高価で尊いのです。

ヨブ記 2章

「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(10節)

ヨブ記は、「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」というテーマだけでなく、もう一つのテーマがあります。それは、

「人が正しく生きようとする動機は何か」

ということです。サタンは、ご利益があるから人は正しく生きようとすると挑戦します。財産も健康も失ったヨブに、ヨブの妻は言います。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)

しかしヨブは、妻をいさめ、罪を犯すようなことを口にしませんでした。彼の正しくあろうとした動機がご利益ではなかったからです。自分の人生の中で何か悪い事が起きた時、私たちは神を被告席に立たせ、いろいろと責めたてます。しかし、ヨブは違いました。すべてを神の御手にゆだね、神の主権を認めたのです。神が創造主であり主権者で、私たち人間は被造物であり、受け手側であることを認めたのです。神は神、人は人と。

ヨブ記 1章

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(21節)

ヨブ記を理解する上の前提は1節です。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(1節)

ヨブは神も認める潔白で正しい人でした。ヨブ記のテーマの一つは、

「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」

ということです。悪い事をした人に災いが起こったとしても、私たちは悩むことはありません。しかし、正しく生きている人に災いが起こる時に、私たちは納得がいかなくなります。しかし、今日のヨブの発言は、私たちの心を揺さぶります。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

すべては主の御手の中にある。ヨブは状況に関係なく、すべてを神への賛美へと変えました。いつでも、どんな時でも、神の御名がたたえられますようにというこのヨブの姿勢をもつことが出来ますように。

今日は主の日。共に、主の御名をほめたたえましょう。

ピリピ 4章

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」(2節)

「主にあって一致してください。」

訳された言葉は、

「主の中で同じ思いを持ちなさい。」

と訳せます。教会の中で、指導的立場にあった二人の姉妹が、仲たがいしていたことが分かります。「主と同じ思い」というのは、2章に出てくる内容です。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(4-8節)

キリストの思いを自らの思い、心構えとすることができますように。

ピリピ 3章

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(10,11節)

苦難を否定的に捉える現代社会では理解しがたい内容ですが、LBではこう訳しています。

「私は今、ほかのことをいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。つまり、真にキリストを知ること、キリストを復活させた力を、この身をもって体験すること、そして、キリストと共に苦しみ、また死ぬとはどういうことかを知ることです。死者の中から復活した、生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。」

「キリストの苦しみにあずかること」「キリストと共に苦しみ」と訳された単語は、「キリストの苦しみの交わり(コイノニア)」という単語です。苦しみに与った者こそ、人知を超えた聖霊の臨在を体験した信仰の仲間としての一体感を体験します。

ピリピ 2章

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」(1節)

この箇所は、三位一体的に解釈することができます。まず、子なる神、キリストにあって励まし(または、慰め)があるようにという祈り。次に、父なる神にある愛の慰めがあるようにという祈り。そして、聖霊にある交わり(コイノニア)があるようにという祈り。最後の「愛情とあわれみ」は、「聖霊にある交わり」を解説していると理解できるかもしれません。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「あなたがたは同じ御霊を共にいただいており、主にあって互いが兄弟であるということの、ほんとうの意味がわかっているでしょうか。やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか。」

「やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか」という問いは、いつの時代も、聖霊の共同体(教会)である私たち一人一人に投げかけられています。

ピリピ 1章

「それは、私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(20節)

「私の身によって、キリストがあがめられることです。」

を直訳するならば、

「キリストが私の身体の中で大きくなることです」

と訳せます。キリストが大きくなると言うことは、自我の割合が小さくなることです。バプテスマのヨハネも、

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:20)

と言いましたが、キリストが大きくなり、自分が小さくなるというのは、信仰者の心です。この時、パウロは投獄され、判決を待っていましたが、彼の心はいわゆる運命にではなく、結果的に、「キリストがあがめられること」という願いで満たされていました。私たちのすべてが、主に栄光を帰すものとなりますように。

エステル 10章

「それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」(3節)

モルデカイが尊敬された理由が二つあります。

一つは同胞の幸福を求めたこと。

もう一つは

「平和」

を語ったこと。

「平和」は聖書のキーワードの一つで、原語は「シャローム」。「平和、平安」という意味と同時に、「満たし、健康、福祉、健全、完全、無事、祝福など」の意味があります。使徒ペテロはこう言います。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和(シャローム)を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(Ⅰペテロ3:10-12)

イエス・キリストが成し遂げられた和解、シャロームの実現に生きることができますように。

エステル 9章

「この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(1節)

神の民を滅ぼそうと企んだ者が、逆に滅ぼされました。もっとも神の民を滅ぼそうとしている本当の敵とは、暗闇の力、悪魔です。この暗闇の力があまりにも強大なので、時に私たちは滅ぼされそうに感じてしまいます。しかし、最終的に滅ぼされるのは悪魔の方です。聖書は言います。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

今、たとえやみの中にいるように感じても、キリストを心の中に歓迎するならば、必ず、希望の光は灯ります。キリストを信じる者は、ひとりも滅びることなく永遠のいのちを得ると聖書は約束します。

「ほんとうに恐れなければならない方を教えましょう。殺した後に、地獄に投げ込む力を持っておられる神を恐れなさい。神こそ、ほんとうに恐れなければならない方です。」(ルカ12:5LB)