エステル 8章

「王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」(8節)

聖書の福音を理解するためには、この原則を理解する必要があります。

「罪から来る報酬は死です」(ロマ書6:23)

という文書も誰も取り消すことは出来ません。ですから、取り消す代わりに、別の文書が必要でした。

「ところが、神は私たちを救うために、別の計画を実行に移されました。すなわち、神のひとり子を、私たちと同じ体を持つ者として〔ただ、私たちのような罪の性質をもたない点では異なりますが〕世にお遣わしになったのです。そして彼を、私たちの罪のためのいけにえとして、私たちをがんじらめにする罪の支配を打ち破られたのです。」(ロマ書8:3LB)

神のひとり子、イエス・キリストは罪の支配を打ち破られました。イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられるという文書も、だれも取り消すことはできません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

エステル 7章

「こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。」(10節)

この話は、ただ、悪者ハマンがやっつけられて、めでたしめでたしという類の話なのでしょうか。新約聖書の光から考えると、敵でさえ愛するように命じられたイエスの話と矛盾する感じもします。新約聖書的には、エペソ書6章にあるように私たちの本当の敵は、血肉をもった人間ではなく暗闇の支配者である悪魔です。では、何を神はここから私たちに教えたいのでしょうか?注目すべきポイントは、ハマンはモルデカイのために柱を用意し、しかもそれに自分がかけられたほど、準備は完全に整っていました。将棋で言う、次の一手で詰む状況でした。ところが大どんでん返しが起こったのです。神は、私たちがモルデカイのように99パーセント詰められたような状況においても、神は大どんでん返しの神だから、希望を捨ててはいけないと教えているのではないでしょうか。

エステル 6章

「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」(1節)

エステルが一日ずらした結果、王はその夜、眠れなくて、記録の書、年代記を読ませました。その時、ユダヤ人モルデカイの記録を聞きました。そして、自分が何もしていなかったことに気づかされます。そして、モルデカイを殺害しようと企んできたハマンに、モルデカイに逆に栄誉を与えるという大ドンデン返しが起こります。これらが一夜にして起こったというところに私たちは心を留める必要があると思います。私たちは不安の中で、眠れない夜を過ごす時も、

「眠っている間に、このように備えて下さる」(詩篇127:2)

神に目を向ける必要があると思います。一夜にして状況を変えることができた神は今も生きておられます。ですから詩人は歌っています。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)

エステル 5章

「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」(8節)

エステルが、どうしてすぐに言わずにじらしたか私たちには分かりません。しかし、私たちが知っているのは、そのおかげで、王はモルデカイのことをもう一度心にとめる機会が与えられたこと、そして事がスムーズに進んだということです。これは、「神の時」があるということです。今、うまくいかない理由は、必ずしも行なっている内容が問題だとは限りません。単に、その時ではないという場合も十分考えられます。何でも挑戦することは大切なことですが、静まって、神の時を待ち望むことも大切なことです。
「主よ、あなたの時を教えてください。」

エステル 4章

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(14節)

神は、私たちひとりひとりに目的をもっておられます。私たちが経験してきたこと、また、今与えられている環境も、すべて神の御手の中にあります。しかし、神は同時に私たちに自由意志を与えられました。神は私たちに目的をもっておられますが、それに応答するかしないかは、私たちの側に任されています。ですから、日々、祈りましょう。

「主よ、あなたは目的をもって私を造られました。ですから、私はその目的に生きたいのです。今日、私が何をなすべきかを教えてください。私はあなたのみこころに従います。」

主が与えられた機会(チャンス)に応答していくことができますように。

エステル 3章

「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」(2節)

これは、ただ単にお辞儀をしなかったという意味でなく、人間を神として礼拝しなかったということです。歴史を通じて多くのクリスチャンたちが信仰のために殉教していきました。戦時中の日本でも、多くのクリスチャンが殉教しました。

マルチン・ルターはかつて言いました。

「ヴィッテンベルグの屋根の瓦がみなサタンでも、我、ここに立つ。」

ひとりぼっちでも、味方が誰一人いなくても、信仰に堅く立つことは大事なことです。信仰の先輩達のように、イエス・キリストは、命にもまさるほどの存在でしょうか?私たちも歌いたいと思います。

「たとえ誰も私についてこなくても、私はそれでも主についていく」

(Though no one follow me, still I will follow.)

エステル 2章

「このことがモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに知らせた。エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた。このことが追及されて、その事実が明らかになったので、彼らふたりは木にかけられた。このことは王の前で年代記の書に記録された。」(22,23節)

モルデカイは、アハシュエロス王の暗殺計画を知り、王妃エステルに告げました。エステルは、モルデカイの名でそのことを告げ、そのことが記録されました。二つのポイントがあります。

一つは、私たちの善行は記録されるということです。神を恐れ、施しをし、神に祈るコルネリオの前に天使は現れ、こう言いました。

「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(使徒10:4)

誰も見ていなくても、見返りがなくても、神は覚えておられます。

二つ目のポイントは、神の摂理は私たちの想像を超えているということです。この付け足しのように見える出来事が驚く結末をもたらしたことを覚えたいと思います。

エステル 1章

「そこで王は法令に詳しい、知恵のある者たちに相談した。」(13節)

エステル記のテーマの一つは「神の摂理」です。全ては神のみ手の中で良しとされます。しかし、学ぶべきこともあります。アハシュエロス王が宴会を催し、王妃のワシュティも婦人たちのために宴会を催しました。酒で心が陽気になったアハシュエロス王は、ワシュティの気持ちも考えずに、彼女の容姿の美しさを自慢するために、酒席にくるように命じます。ワシュティが断ると、王は怒り、そして「知恵のある者たち」と相談したとあります。彼らは、妻が夫を尊敬するようにワシュティを追放するように進言しました。しかし、権力で尊敬を勝ち取ることができるはずがありません。アハシュエロス王は結局、自分がしたことを後悔します。私たちは判断に悩む時、「知恵のある者たち」に相談するよりも先に、神に祈ることができます。

今日は主の日。まず何よりも主に礼拝を捧げ、主の導きに生きられますように。

ネヘミヤ 13章

「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」(14節)

ネヘミヤがエルサレムに戻ってくると、

「私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。」(10節)

とあります。人々は「働き人」(レビ人)を軽視し、「働き人」は奉仕し続けることができなくなってしまいました。問題は、イスラエルの人々が神殿をないがしろにしていたことでした。ネヘミヤは言います。

「どうして、神殿をそんなにないがしろにするんだ」(11節LB)

これは、現代に生きる私たちにも問われています。「キリストのからだである教会」をないがしろにしていないでしょうか。ネヘミヤは、神を大切にするがゆえに、神殿を大切にしました。私たちも「キリストのからだである教会」を大切にしましょう。

ネヘミヤ 12章

「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(43節)

礼拝の中心が賛美の歌を神に捧げることであったことが、この箇所から分かります。女性も子供も一緒に喜び歌ったとあるように、これは会衆賛美です。さらに、

「喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」

という箇所から、結構大きな音だったことも想定されます。しかし、無秩序であったわけではありません。46節には

「昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた。」

とあるように、ワーシップ・リーダーが導いていたことも分かります。聖書が私たちに伝えていることは、神はそれほど私たちの賛美の歌声を望んでおられるということです。心から主に賛美の歌声を上げましょう!