コロサイ 3章

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(1,2節)

私たちはキリストにある視点、キリストにある価値観、世界観に生きるよう勧められています。LBでは2節をこのように訳しています。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」

「天上のことで心を満たされる」という意味は、世捨て人になることではありません。神の国、神のみこころ、聖書の価値観で心を満たすことです。ですから、15節にこう記されています。

「キリストにある平和が、いつもあなたがたの心と生活を満たすようにしなさい。そうすることが、キリストの体の一部とされたあなたがたの責任であり、特権でもあるからです。また、いつも感謝していなさい。」(LB)

コロサイ 2章

「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(19節)

当時の教会の問題の一つは、キリストとの関係、そして、キリストのからだである教会との関係を軽視する人の存在でした。今日の箇所をLBでは、こう訳しています。

「彼らはキリストにつながっていません。しかし、キリストの体を構成する私たちは、キリストをかしらとして結びついています。私たちは間接と筋肉によって互いにしっかり結び合わされ、神から養分と力とをいただいて成長するのです。」

メッセージ訳では、後半部分をこう訳しています。

「キリストはかしらで私たちはからだです。私たちは、神様が養ってくださることによってのみ健全に成長できます。」

かしらであるキリストとの関係、キリストのからだである教会との関係の両方が大事です。

コロサイ 1章

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(16節)

ここには、「御子」、すなわち、イエス・キリストの前に、三つの前置詞が出てきています。「あって」、「よって」、「ために」です。すべてのものは、イエス・キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、そして、キリストの「ために」存在しています。ですから、キリストご自身を求めて生きていかなければ、人は人生の意味を見失います。さらに、聖書は言います。

「キリストは、ご自分に属する人々からなる体、すなわち教会のかしらです。」(18節LB)

教会もまた、キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、キリストの「ために」存在しています。

今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨブ記 42章

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(5,6節)

ヨブは、単なる耳学問ではなく、神を現実として体験しました。ヨブの苦難に対する神からの答えはありませんでしたが、ヨブは満足しました。知性偏重主義の社会に聖書は挑戦します。人は知性以上の存在であり、神を体験することが大切であると。ここで「悔い改め」と訳された言語は、一般的に「悔い改め」と訳す言葉とは違う言葉が使われています。罪を悔い改めるという意味ではないので、岩波訳では、「考え直します」と訳しています。ヨブは罪人だったという意味ではありません。「義人が苦しむことがある」ということがヨブ記のテーマだからです。しかし、その苦難は祝福のはじまりでもありました。聖書は言います。

「ヨブの晩年は、初めよりずっと祝福されました。」(12節LB)

ヨブ記 41章

「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押えつけることができるか。」(1節)

レビヤタンが何であるか、今もよく分かっていません。学者によっては竜(ドラゴン)だと主張します。恐竜と考える学者もいます。分かっていることは、神以外にはコントロールできない海の怪物であるということです。二一世紀に入り、どんなに衛星写真が発達しても、人類は地球上の生命体のすべてを把握しているわけではありません。未知なる世界は今も存在していることを忘れてはいけないと思います。人類は神ではありませんし、永遠に神になることはできません。知らないことを知り、謙遜になることが大切です。ここでのレビヤタンは、破壊的力の象徴でもあると考えられますが、それさえも神の管理下にあると言う事実を、心にとめることも大事だと思います。「王の王、主の主なる偉大なる神様、あなたの力と主権を認めます。あなたをあがめ、たたえます。」

ヨブ記 40章

「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(2節)

ヨブの苦難の問題は、いつのまにかに神ご自身が問題だという風に変化していました。ヨブは神がなされていることに口を挟んでしまったのです。神の質問に対し、ヨブは、自分の知識がいかに限定的であったかに気づかされ、しゃべりすぎたことを恥じ、沈黙します。そんなヨブの姿に私たちは自分を重ね合わせることができると思います。全能者の神に、あたかも自分の方が賢いかのごとく、指図していることがあるのではないでしょうか?神よりも自分のほうがよく分かっているかのごとく、神を教えようとしていることがあるのではないでしょうか?ヨブの反応が、神への私たちの反応となりますように。

「私は何の値打ちもない者です。どうして答えることができましょう。口に手をあてて黙り込むだけです。私は語り過ぎました。」(4,5節LB)

ヨブ記 39章

「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」(1節)

この地上において、知恵は教えます。
「正しい者は健康で繁栄する。だから、正しく生きよう。」

その「知恵」自体が間違っているわけではありません。問題は、

例外がある

ということです。どんなに正しく生きていても、健康を損なうこともあれば、繁栄しないこともあります。それは、

「人間の知恵」を超えた「神の摂理」

の中にあります。神はそのことをヨブに教えるために、自然現象における創造の不思議、動物の世界における不思議を、この章で取り上げます。これらの質問は、ヨブの質問に直接は答えません。「義人がどうして苦しむのか?」という疑問は答えられません。因果応報を否定しているわけでもありません。訓練としての試練、適格者となるための試練を否定しているわけでもありません。神はただ、神の摂理の大きさに目を向けるように言います。

ヨブ記 38章

「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。」(1節)

38章から、神がヨブに直接語られています。若いエリフの話がまだ終っていない印象も受けますが、神が突然、登場します。榎本保郎師はこう言います。

「聖書には神がつむじ風の中でしばしばご自身を現されたことが記されている。考えてみると、つむじ風、すなわち暴風に出会うとき人間は自分の弱さをいやというほど知らされる。・・・人間は自然の猛威に出会うとはじめて自分の弱さ、小ささに気づく。言うならばそのときはじめて人間は本当の自分に気づくのである。そして、そのとき、人間は神の声を聞き取ることができるのである。」

震災など自然災害は、私たちにそのことを体験させます。私たちは痛いほど、人の弱さ、小ささに気づかされます。私の神学校の先生は、

「病気や死は、私たちが神ではなく、『人間である』ということを知らせるものだ」

と言っていました。
「人は人であり、神は神です。」

ヨブ記 37章

「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」(14節)

ヨブは三人の友人との対話の中で、自分のことでいっぱいになっていました。「因果応報」を絶対視する友人たちは、ヨブに非を認めさせようとしました。しかし、ヨブはそのことに疑問を呈し、「自分の何が悪かったのか?」と神に訴えます。しかし、そんなヨブの視点を変えるようにエリフは訴えます。

「神が嵐を起こすのは懲らしめのため、また、いつしみで人々を元気づけるためだ。」(13節LB)

神の知恵を人は理解することはできません。エリフはヨブに、人間のはかない知恵で悟りを開こうとすることをやめて、神の素晴らしい御業を考えるように勧めたのです。私たちは自分を主体として世界を考えることをやめて、神を主体として、神の御業を考える必要があります。「私」ではなく、「神が」何をしてくださったか、十字架の御業をじっと考えることが大切です。

ヨブ記 36章

「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。」(26節)

「義人がどうして苦しむのか」

というテーマに関して、エリフは新しい視点を提供します。

「神は悩んでいる者を救い出す。人は苦しむと、神のことばを聞くようになる。」(15節LB)

人は問題にぶつからないと神に耳を傾けない傾向があります。もっとも、

「心で神を敬わない者は、怒りをたくわえ、神が彼らを縛るとき、彼らは助けを求めて叫ばない。」(13節)

とも言います。苦難は、神に叫ぶためにあるというのがエリフの主張です。神は私たちの苦難を用いて、私たちを訓練すると。エリフは

「神はあまりにも大きいので、神を知る手がかりさえつかめない。」(LB)

と言います。神を人間理性の箱の中に収めることなどできません。キリストにあって、神を神として認める必要があります。

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。