ヨブ記 35章

「しかも、あなたは神を見ることができないと言っている。訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」(14節)

この世の不条理に対して、神の不在を哲学者は主張して来ました。人々は抑圧されて叫び声を上げてきました。エリフは言います。

「神にこう問いかけたところで、神は、抑圧する者にすぐさま報復してくれるわけではない。」(12節LB)

しかし、エリフは哲学者たちと違い、ここでは終わりません。

「かといって、神がこのような叫びに耳をふさいでいると思うのは間違いだ。神は事の成り行きを見ていないと考えるのは、いっそう大きな間違いだ。神を待ち望みさえすれば、正しいさばきをしてくださる。神が怒ってすぐ罰しないからといって、大声を上げて神にかみついてはいけない。」(13-15節LB)

私たちは神ではありませんし、神になることも絶対にありません。神は善にして善を行われるお方です。私たちはあきらめずに神を待ち望む姿勢が必要です。神は生きておられます。

ヨブ記 34章

「神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。」(12節)

エリフも三人の友人たちと似たようなことを言っているように感じますが、少し違うところがあります。エリフが問題にしているのは、「因果応報」という法則のことではなくて、ヨブが神よりも自分を義としているという問題です。問題の中にあっても、私たちが見失ってはいけないことは、それでもなお神は悪を行なわないお方であるということです。私たちが理解できない状態でも、神は公義を曲げない方であり、最善をなされるお方であるということを捨ててはいけないのです。知らないこと、理解できないことのゆえに、知っていることを捨てるべきではありません。分からないときほど、分かることに焦点を置くべきです。

「神が絶対に悪を行わず、正義を曲げないということほど確かなことがあるだろうか。」(LB)

「神が光の中であなたに語られたことを闇の中で疑ってはならない」(ニッキー・ガンベル)

ヨブ記 33章

「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(14節)

簡単に言うと、神の方法は私たち人間には分からないということです。イザヤ書でも、神がはっきりとおっしゃっています。

「わたしの計画はあなたがたの計画と違い、わたしの思いはあなたがたの思いと違う。天が地より高いように、わたしの道はあなたがたの道より高く、わたしの思いはあなたがたの思いより高い。」(55:8,9LB)

ヨブは、「因果応報」という発想から解放される必要がありました。エリフは、前の三人とは違って、痛みにも意味があるかもしれないことをヨブに伝えます。苦しみがもたらすものとして、26節で彼はこう言います。

「彼が祈ると、神はすぐさま答え、喜んで彼を受け入れ、彼を元の働き場に戻す。」(LB)

「なぜ?」と答えが得られない質問を繰り返すのではなく、「神に祈るべきだ」と彼は言います。

ヨブ記 32章

「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」(8節)

今日の箇所で、突然、エリフという人物が登場します。彼はここまで、名前も存在も出てきません。この後も出てきません。ですから、エリフの発言をどう理解するか様々な見解があります。しかし、ここにヨブ記のもう一つのテーマがあります。それは、

「神は神であり、人は人である」

ということです。「この世の知恵」と「神の知恵」には、確かに違いがあります。人は、そもそも「全能者の息」によって「生きた者」(創世記2:7)となりました。ですから人は「全能者の息」によって「理解」が与えられます。新約聖書の中で、この「息」と訳された言葉と同じ言葉が使徒の働き2:2で、「風」として出てきます。ペンテコステの日、祈っていた一二〇名の兄弟姉妹の上に聖霊が臨まれました。その時、まさに、「全能者の息」によって、人々は理解する力も与えられました。

ヨブ記 31章

「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。」(35節)

31章は、ヨブのフラストレーションを感じ取ることができます。

「もし・・・」

と、7つの状態を提示し、それらに何かひっかかる所があるなら、因果応報は成立するから納得できると言います。

「私の言い分を聞き、私の立場を理解してくれる者はいないのか。だれが何と言おうと、わしは正しい。もし、間違っていたら、全能者がそれを指摘すればよい。」(LB)

ヨブは因果応報の論理から言えば、不当にひどい目にあっていると主張します。

聖書が私たちに教えていることは、因果応報の中に神を納めてはいけないということです。私たちが理解できることは限られていますし、神は因果応報の法則に縛られるお方ではないからです。ですから、因果応報を土台にして生きていく生き方は、もろい生き方になってしまいます。

ヨブ記 30章

「私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。」(20節)

信仰者にとって一番辛いのは、神が答えてくださらない、見捨てられたように感じる時だと思います。イエス様も、十字架の上で叫ばれました。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」

しかし、現実は、神は見捨てていたわけではありませんでした。十字架を通して神は勝利をとられ、復活はそれを証明しました。神はヨブも見捨てていたわけではありませんでした。この後、実際に神が介入されますが、神が別にヨブに目を留めていなかったわけではなかったことが分かります。たとえそう見えなくても、神は私たちを見放すことも、見捨てることもありません。理解できない、判別もできない暗やみの中で、この明確な真理を手放してはいけません。

ヨブ記 29章

「私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。」(14節)

ヨブは本当に祝福されていた人でした。地域社会においても彼は人々から敬意を受けていました。なぜならば彼は正義を行なう人だったからです。彼はどんな人に対しても正しい扱いをしました。しかし、正しく生きているからといって病気をしないわけではありませんし、問題に巻き込まれないわけではありません。だからといって神を否定すれば問題が解決されるわけでもありません。私たちが求められていること、それは、苦しみの極みである十字架にかかられたイエス・キリストを見あげることです。義人イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪の贖い、そして神の国をもたらすという目的がありました。私たちの苦しみにも意味があります。

今日はペンテコステ。聖霊を求め、主を礼拝しましょう。

※ ペンテコステおめでとうございます。本日のSSCは、15時より、鶴見での合同聖会に合流。第三礼拝はお休みです。

ヨブ記 28章

「しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。」(23節)

28章は、知恵の賛歌です。ヨブは言います。

「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。」(20,21節)

鉄や銀や金を発掘できても、知恵は発掘できません。知恵は神から来ます。私たちが正しく生きる動機、それは因果応報の故でなく、神の知恵がそう教えるからだとヨブは言います。

「さて、神様が全人類に言うことは、こうだ。『神を恐れることがほんとうの知恵、悪を捨てることがほんとうの悟りだ。』」(28節LB)

「主よ、あなたの知恵を求めます。日々、神をおそれることを選ぶことができますように。」

ヨブ記 27章

「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(5節)

「潔白」と訳されたことばを、英語の訳では「INTEGRITY」(正直、清廉、高潔、誠実)と訳しています。タイヤのビスが一つ外れたからと言って、すべてのビスを外す必要はありません。逆境のときに、うまくいかないときに、私たちはヨブのように宣言する必要があると思います。友人たちに責められながらも、それでも、私は死ぬまで私は自分の人間としての尊厳を手放さないと。自分がたとえ理解できなくても、神はすべてをご存知です。そして、私たちの神は、私たちを愛し、私たちの人生に関心を持ち、私たちに最善をなしてくださるお方です。ヨブの苦難にも終わりがあったように、私たちもやがてトンネルを抜け出すときが来ます。ですから、ヨブのように、キリストのみ顔を拝するときまで、自分の尊厳を離さないようにしましょう。

ヨブ記 26章

「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。」(14節)

人間の悟りの問題は、神の道の外側しか分からないということです。ヨブの友人たちの話している内容は、宗教家であれば誰でも発言するような内容ですが、ヨブには何の助けにもなりませんでした。これが、宗教の限界でもあります。人間の側からのアプローチの限界です。しかし、神の側からのアプローチがキリストによって人類にもたらされました。キリストを信じる者の心の内に、聖霊が住んでくださり、神の心を感じることができるようにしてくださいました。聖書を与え、聖書を通して神の思いを聞くことができるようになりました。私たちは今、神とのコミュニケーション手段が与えられています。祈ることができます。聖書を開くことができます。誰かの声ではなく、聖書の御言葉を探しましょう。