詩篇 9篇

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(10節)

主は、主に拠り頼む者をお見捨てになるような方ではありません。しかし、私たちは時々揺らいでしまうことがあります。揺るがない信仰生活のためには、主の御名を知る必要があります。主の御名は、聖書の中に散りばめられています。

「エル・シャダイ」という御名は「全能の神」という意味です。

「ヤハウェ・ラファ」は「いやし主」。

「ヤハウェ・シャローム」は「平和の主」。

「ヤハウェ・シャマー」は、「ここにおられる主」。

「ヤハウェ・イルエ」は「備え主」。

つまり、私たちがより頼むお方は、全能であり、いやし、平安を与え、共におられ、私たちの必要を備えてくださるお方だというのです。このお方を、知識としてだけでなく、体験していきましょう。

詩篇 8篇

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(5節)

浅野師は、「劣るもの」と訳されているヘブル語は、「後に立つ」と解釈することができ、神は先に立ち、人間はそのうしろに立つ、神は導き、人はそれに従うという意味となると言います。確かに、これが本来の人間の姿でもあります。神を神として認め、神の導きに従う・・・ここに、人間としての栄光、誉れがあります。8篇の最初の行と最後の行は、同じ文章です。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

「私たちの主、主よ」というのは面白い表現です。実は後半の「主」は、神の名、「ヤハウェ」が使われています。「私たちの主、ヤハウェ」となります。「私たちの主」は肩書きで、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。エルサレム途上の「ちいろば」のように、王なるイエス・キリストに従う人生こそ、栄光ある生き方です。

詩篇 7篇

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。」(1節)

ダビデは自分の中傷者を

「獅子」(2節)

のようだと言います。興味深いことに、使徒ペテロもこう言います。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)

どうやって悪魔は私たちを食い尽くそうとするのでしょうか?私たちを責める事によってです。「あなたは失敗者だ」「それでもクリスチャン?」「あなたは間違っている」と、私たちの耳にささやきます。これらは悪魔の言葉です。私たちは、悪魔の火矢のように、日々の生活の中で非難の矢、中傷の矢を受けることがあります。だから、日々、聖書のみことばに触れる必要があります。神のことばに耳を傾ける必要があります。

詩篇 6篇

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6節)

スポルジョン師は、

「涙は、液体の祈りで解釈はいらない」

と言います。新共同訳では次のように訳しています。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」

感情的だと問題視する人もいるかもしれません。しかし、このような涙の祈りはイエス様ご自身もなされた、聖書的な方法です。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せばいいという意味ではありません。イスラエルに「泣き屋」がいましたが、人はうわべを見ますが神は心を見ます。大事なのは私たちの内側であり、私たちの砕かれた心を神は軽視することはありません。

詩篇 5篇

「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(2節)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3節)

とありますので、この詩を「朝の祈り」と一般的に考えられています。一日のはじめを、祈りをもってはじめるということは素晴らしいことです。出エジプト16:21にこういう箇所があります。

「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

これは、天から与えられたマナのことですが、朝ごとに祈り、聖書のみことばをいただくということも、同じように適用できると思います。2節をLBはこう訳しています。

「私はあなた以外のだれにも、決して祈ったりしません。」

聖書は

「神だけに頼る」

ということを、私たちが学ぶ必要があることとして語っています。

詩篇 4篇

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(7節)

6節にこう記されています。(メッセージ訳)

「どうして、みんな『もっと』ということに飢えているのか?『もっと、もっと』と彼らは言う。」

人間の物欲というものは果てしなく、永遠に満足することはありません。あれさえあれば、これさえあればと思っても、結局は、それを手にしても、また、別のものが欲しくなります。詩人は言います。

「わたしには『十分よりもっと』の神がおられる。」

人の本当の満足は、神との関係の中にあります。間違った場所に喜びを求めているということはないでしょうか?神の臨在の中の喜びは、物質的な繁栄よりも大きな喜びをもたらします。
今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 3篇

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」(コロサイ3:2LB)

「天上のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。

詩篇 2篇

「天の御座に着いておられる方は笑う。」(4節)

神にとってみれば、人間が限られた能力でやっていることは、おかしなことだと思います。ある人が、壁にこう書きました。

「神は死んだ。ニーチェ」

次の日、別の人が、壁にこう書き加えていました。

「ニーチェは死んだ。神」

ボルテールという哲学者は、二〇世紀になる前に、聖書はこんな本もあったと博物館入りすると言いました。私たちは今、二一世紀に生きていますが、聖書は、博物館入りするどころか、今も、世界のベストセラーであり、逆に、ボルテールという人は、専門家以外あまり知られていません。さらに、彼の家は今、聖書協会の事務所になっているそうです。私たちの人生も、これと似ているところがあると思います。いろいろ、自分のない知恵を尽くして、がんばるのですが…。一番、いい方法は、神に委ねて、膝をかがめて祈ることです。天に座すお方を認めるということが大事なことです。

詩篇 1篇

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(3節)

1節を浅野順一師はこのように訳しています。

「幸いなるかな、悪人の計りごとに歩まず、罪びとの道に立ちどまらず、また嘲る者の座に坐らぬ者。」

ちょうど山上の説教で、イエス様が八つの「幸いなるかな」から始められたように、この詩は始まります。悪人、罪人についての説明はありませんが、「嘲る者」は神のことばを嘲るということだと思われます。なぜなら、正しい者は、神のことばを喜びとしているからです。正しい者は、「水路のそばに植わった木」にたとえられていますが、それは、周囲は枯れ果てた荒野という想定だと思われます。川が流れているために、その木は夏も冬も枯れることなく、いつも青々と茂っているのです。浅野師はこうまとめています。

「義人の願うところは皆成就し、そのなすところは成功するというのである。」

コロサイ 4章

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。」(2,3節)

使徒パウロは祈りの力を知っていました。祈りなくして、福音を伝える機会が与えられるとは考えていませんでした。神は、私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業を行われるお方であることを知っていたのです。神は私たちの祈りを聞かなければならないわけではありませんが、聞かれるお方です。ですから、パウロは訴えます。

「祈りをやめてはいけません。感謝をもって、熱心に祈り続けなさい。」(2節LB)

聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(へブル11:6LB)