詩篇 60篇

「神によって、私たちは力ある働きをします。」(12節)

「神によって」は「神の中で」(in God)とも訳せます。自分がどの位置にいるかが、私たちの人生に影響を与えます。ダビデは、自分を神の中に置くことによってベストを尽くすことができました。自分を神の中に置くことを意識することは大切なことだと思います。私たちは

「神の中に生き、動き、また存在している」(使徒17:28)

のです。このことを意識して生きていくかどうかが、私たちが力強く生きていくために重要です。人にはできないことも神にはできます。神の中に生きているならば、私たちの能力を超えたすばらしいことを期待することができます。それは、自己満足の世界ではなく、神の御国をこの世界に体現していくことです。イエス・キリストの十字架と復活を通して、神の御国がこの世界にはじまっていることを体現する人生です。今日は主の日。共にこの世界で主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 59篇

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」(16,17節)

私たちが逆境の中にいるときの一番の処方箋は、神を賛美することです。表題を見ますと、

「サウル王はダビデ殺害を謀り、兵を派遣した。兵に家を包囲された時のダビデの詩」(LB)

とあります。私たちも、四方八方を問題に囲まれたように感じる時、ダビデのように朝ごとに神を賛美することが大切です。私たちが逃げてよい逃げ場は、賛美を住まいとしておられる神だけです。神のもとへ身を避けるなら、ダビデと同じように歌うようになります。

「ああ、私の力そのものの神よ。あなたをたたえて歌います。あなたは、安全な高い塔。」(17節LB)

詩篇 58篇

「力ある者よ。ほんとうに、お前たちは義を語り、人の子らを公正に裁くのか」(1節)

テレビや新聞で報道される国内外の事柄から家庭や学校など身近な所に至る出来事まで、私たちは自分の価値観で物事を判断し、裁く傾向にあると思います。多くの場合、自分は正しいと思い、正義感に燃えてジャッジをするのですが、果たしてそれは本当に正しい判断なのでしょうか。自分の育ってきた環境だけがすべてではなく、視点も様々です。私たちは何かを判断する場合、もっと謙遜になるべきではないでしょうか。私たちは神ではありませんから当然不完全であり、間違いも犯します。そんな欠けのある私たち人間が、自分の判断、ジャッジは絶対に正しい!と思うことに関して聖書は警告を与えているのです。五八篇の最後はこう締めくくられています。

「まことに、さばく神が、地におられる。」

詩篇 57篇

「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」(2節)

誰に呼び求めるかはとても大事なことです。私たちが呼び求めるお方は、いと高き方、神です。力ある偉大なる創造主なるお方です。「光あれ」と言われ、光を創造されたお方です。このお方はまた、キリストを信じる私たちに関わってくださり、私たちのためにすべてを成し遂げてくださるお方です。聖書は言います。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(ピリピ1:6新共同訳)

つまり神は、私たちに成し遂げるために必要なすべても備えてくださっているということです。ですから、この神を信頼して、呼び求めていきましょう。

「私は、天におられる神、奇跡を行ってくださる神に叫びます。」(LB)

詩篇 56篇

「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(4節)

「みことばを、ほめたたえます。」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではなく、聖書のみことば、特に神の約束のゆえに、神をほめたたえるという意味です。私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神の約束です。感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させます。「肉なる者」という日本語は一般的ではありませんが、人のはかなさを象徴しています。預言者イザヤは、こう表現しています。

「すべての人(肉なる者)は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

ダビデは大変な状況、大変な問題に直面してきましたが、この視点をもっていたので、乗り越えることができたことを心に留めたいと思います。

詩篇 55篇

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(22節)

この詩は、ダビデが、彼の息子、アブシャロムに反乱を起こされたときに書いたと言われます。彼の側近であったアヒトフェルが、この時、彼に敵対しました。ダビデにとって、息子だけでなく、側近の反乱は、精神的にもショックだったと思われます。しかし、そんな状況の中で、彼は立ち止まり、言います。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」

神に重荷をおゆだねする時、平安が来ます。ですから、預言者イザヤもこう言います。

「主を信頼し、いつも主のことに思いをはせる者を、主は何の心配もないように守ってくださいます。どんなときでも、神である主に信頼しなさい。あなたの永遠の力は主のうちにあるからです。」(イザヤ26:3,4LB)

詩篇 54篇

「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(4節)

どんな時でも、どんな状況でも、神様が自分を助ける方であることを告白することは大切なことです。「まことに」と訳された言葉は、一般的に「見よ」と訳される言葉です。聖書は、問題に目を向けるのではなく、私たちを助け、支えてくださる神様を見るように訴えます。神様に目を向けることができるのならば、最後には、詩人と共に賛美することができます。

「わたしは今、神を礼拝する準備ができています。とても準備ができています。神様、ありがとう。あなたはとても良いお方です。」(6節MSG)

神様に目を向ける時、私たちの嘆きは確信に変わります。私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。神様を見上げるならば、神様が私たちと共におられ、私たちを助け、支えてくださっていることを知ることができます。

詩篇 53篇

「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

聖書は一部だけでなく、全体の文脈を通して読む必要があります。今日の箇所に「神はいない」という言葉が出てきますが、前後関係を見れば分かるように、それは、愚かな者が言うことです。実際、「無神論者」になるには、相当な信仰が必要です。ゴミの山からロボットが突然生まれてくることを信じられるほどの信仰が必要です。また、神を否定したからといって、問題が解決するわけではありません。多くの場合、「神を信じない」という人の神観は、聖書の神観とはまったく異なります。「あなたが信じない「神」とはどういう「神」ですか」と尋ねたなら、私たちも信じられない「神」を答えることでしょう。聖書の神は、この天地万物を創造し、統べ治められ、私たちを愛される三位一体なる神です。今日は主の日。この神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 52篇

「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。」(1節)

私たちはこの世の悪に心を痛めます。悪が勝ち誇っているのを見ると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えてしまいます。しかし、神の恵み、真実、あわれみは、いつもあるということに気づく必要があります。この詩の表題はこのようになっています。「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに」。ダビデは、サウル王から命を狙われていました。アヒメレクの所に逃げたことをドエグが密告しました。ダビデは「安全な場所はどこにもない、誰も信頼することができない」という気持ちになっていたと思います。しかしダビデは歌います。「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」「神の恵み」があるように思えないかもしれません。それでもなお「神の恵みは、いつも、あるのだ」と信仰宣言をしていくことが大切です。

詩篇 51篇

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(12節)

「喜び」はクリスチャン生活のしるしの一つです。「ハッピー」(happy)とは違います。出来事(happening)に左右されるものではないからです。「喜び」は神との関係がもたらせるものです。もっともダビデ王は罪を犯した時、救いの喜びを失いました。罪は神との関係を壊すからです。罪のゆえにダビデ王は神の臨在を感じることができなくなりました。罪は喜びを奪います。しかし、希望はあります。

「もし、自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9LB)

罪を悔い改め、神に立ち返る時、神は救いの喜びを回復してくださいます。「喜んで仕える霊」とは、自発的に神に仕える思いです。神は私たちを喜びで満たし、神の働きに自発的に加わって欲しいと願われています。