詩篇 40篇

「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」(5節)

前半部分をLBではこう訳しています。

「ああ、神である主よ。あなたは何度も大きな奇跡を見せてくださり、いつも私たちのことを心に留めてくださっています。」

神が私のことを心に留めてくださっているという事実は、驚くことです。139篇では、さらにこう記されています。

「主よ。あなたが私を片時も忘れずにいてくださることは、ほんとうに大切な事実です。あなたは一日に、数えきれないほど何度も、私のことを思い起こしてくださいます。」(17,18節LB)

神はすべてを創造し、すべてを治められるお方ですが、私たち一人一人のことを心に留め、気にかけてくださっているお方です。私たちの髪の毛の数さえ知っているとイエス様は言われます。

詩篇 39篇

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(4節)

身体的に問題がないと、死を意識する人は少ないと思います。しかし、人は死亡率100%であり、その時は必ずやってきます。人間のはかなさを意識しないがゆえに、「人生の意味」という重要な問いをせず、人生を無駄に生きてしまうことがあると思います。人生時計があるならば、自分は今、何時に生きているのかを意識することは、大事なことだと思います。詩人が祈るように、人間のはかなさを認識することは大切なことだと思います。賢く時間を用いて、神に頼り生きていくことを学ぶことができるからです。しかし、キリストが復活されたことを知っている私たちは、はかなさだけではなく、永遠の世界があることも覚える必要があります。神の御国は絶えることはないからです。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 38篇

「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(15節)

問題のただ中、詩人はただ祈って神を待ち望むことを選びました。

「いつまで私は危険な崖っぷちに立っていなければならないのでしょう」(17節LB)

崖っぷちに立ち尽くしながらも、詩人は、ただ主を待ち望むことを選びました。時として私たちができる最善の行動は、ただ主を待ち望み、祈ることです。どんなことよりも、ただ黙って祈りに専心することが善い時があります。詩人はそのことを体験したからこそ、この詩が詩篇として私たちのために記録されたのだと思います。アルファのニッキー先生はこんなことを言っています。

「祈りはキリスト教の中心にあります・・・次のような格言があります。悪魔は、私たちの言葉をあざ笑い、私たちの労苦をばかにする。しかし、私たちが祈るとき、悪魔は震えおののくのだ。」

詩篇 37篇

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。」(1節)
まじめに生きることがばからしく思えてしまうときがあることは、古今東西変わらないということだと思います。
「怒るのをやめ、憤りを捨てなさい。くよくよ思い悩んではいけません。自分に害をもたらすだけです。悪者は滅ぼされますが、神に信頼する者には祝福が降り注ぎます。」(8,9節LB)
私たちは、この事実を聖書から聞く必要があります。神を無視して生きていくことは、滅びへの道を歩んでいるということに、気づかされる必要があります。
「不正な手段で金持ちになるより、わずかな持ち物でも満足し、主を信頼して過ごすほうがまさっています。」(16節LB)
正しく生きようとする方が、幸いな人生であることを、私たちは認識する必要があります。
「主は日々、主を信頼する人の善行をごらんになり、永遠のほうびをお与えになるのです。」(18節LB)

詩篇 36篇

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(9節)

私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?私たちはどこに光を見出そうとしているでしょうか?イエス・キリストは言いました。

「わたしがあげる水を飲めば、絶対に渇くことはありません。わたしがあげる水は、それを飲む人のうちで永久にかれない泉となり、いつまでもその人を永遠のいのちで潤すのです」(ヨハネ4:14LB)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊なる神様が住んでくださいます。私たちが聖霊様を意識して、日々、聖霊様に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。いかがでしょうか?他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?いのちの泉は、聖霊様にあります。

詩篇 35篇

「私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。」(27節)

神はご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主です。繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。神はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。「しもべ」は、「仕える者」のことです。「仕える心」をもつ人が繁栄するならば、その繁栄は、さらに「仕える」ために有効に用いられることだと思います。ですから大事なのことは「仕える」ことと言えると思います。イエス様はおっしゃられました。

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)

神は仕える心を持つ人を捜し、その人の繁栄を喜ばれます。

詩篇 34篇

「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(8節)

英語の訳では、

「味わい、見つめよう、主が善い(GOOD)ということを」

と訳しています。神を味わうという表現は面白い表現だと思います。まさに、神との関係は頭の中の話ではなく、体験する世界ということだと思います。哲学的に神学を勉強するだけではなく、実際に神を味わうことがなければ、本当の意味で神を知ることができないということだと思います。つまり、膝を屈めて祈ることを通して、神ご自身を味わう必要があるということです。礼拝者として、他の礼拝者たちと共に神に礼拝を捧げることを通して、神のすばらしさを見る必要があるということです。味わうためには、口を開ける必要があります。見るためには、目を開ける必要があります。神が善いお方、素晴らしいお方だということを知りたいのであれば、信仰によって神を味わう必要があります。

詩篇 33篇

「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(3節)

私たちの社会は、常に新しいものが生み出されていきます。新製品という話だけではなく、旬の食材が食卓に並ぶ時、私たちは新鮮さを味わいます。私たちと神との関係も新鮮さが必要です。伝統的な歌も大切ですが、日々、新しい歌を覚えることに挑戦することも大切です。過去感動した聖句も大事ですが、日々、新鮮な気持ちで聖書を読んでいく必要があります。過去に感銘を受けた説教を心に留めることも大切なことですが、神が今という時に、説教者を通して語ろうとしていることに心を開いていく必要があります。神は今生きておられ、新しい事をなさる方です。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

詩篇 32篇

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(8節)

神は私たち一人一人を愛し、気にかけ、導いてくださるお方です。LBではこう訳しています。

「主はこう言います。わたしはあなたを教え、最善の人生へと導こう。助言を与えて、一歩一歩を見守ろう。」

日々、祈りつつ聖書を読む中で、確かに神が導かれていることを感じます。時宜にかなった「みことば」を発見することがあります。また、神ご自身が、私たちの内に働かれ、思いが与えられることがあります。特別な方法で導かれることもあります。ただ、

「くつわをはめなければ言うことを聞かない、馬やらばのようになってはいけない」(九節LB)

とあるように、思考を停止させてはいけません。今日は主の日。私たちを見守り導いてくださる主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 31篇

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」(24節)

メッセージ訳はこう訳しています。

「勇敢であれ、強くあれ、あきらめるな。神がすぐここに来られることを期待しなさい。」

神は私たちが人生のどんな状況でも、神に期待して生きることを願われています。このような訳もあります。

「だから強くあれ、勇敢であれ、主の内にあなたの希望をおく、すべての人よ」(NLT)。

私たちはどちらかというと「期待しないほうが、がっかりしなくて済むだけましだ」と考えます。しかし、それは、神が私たちに願われている生き方とは違います。もちろん、自分の思い通りに神が動いてくれるように期待するならば失望すると思います。神の思いは私たちの思いよりも高いからです。しかし、神のみこころの中に生きるならば、「人が、これまで見聞きしたことも、想像したこともないほどすばらしいことを、神は、ご自分を愛する人々のために用意してくださった」世界を期待できます。