詩篇 144篇

「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」(1節)

神は私たちを鍛えられるお方です。神は試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、私たちがそれらを乗り越えていくことを通して信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練を受けなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることを私たちは皆経験から理解することができると思います。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「戦いが起こると、主は、弓を引く私の腕を強めてくださいます。」

私たちは自分の力で乗り越えたと思いやすいのですが、乗り越える力も神が与えてくださった…。

「神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。」(1コリント10:13LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

詩篇 143篇

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」(10節)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。神はいつくしみ深い方ですから。また、聖霊なる神が導いてくださる平らな地は、祝福の道です。なぜなら、神の私たちに対する計画は

「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)

だからです。聖霊は、その著書である聖書をもって私たちを祝福の道へと導かれることも心に留めたいと思います。

詩篇 141篇

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」(5節)

現代人は「傷つきやすい」とか「打たれ弱い」とか言われますが、だからこそ今日の箇所を心に留める必要があります。LBでは、次のように訳しています。

「神を敬う人からのきびしい忠告は、私を思う心から出たものです。非難されたように感じても、私にとって薬となるのです。私が彼らの非難を拒絶することがありませんように。」

教えられやすい心をもつということは、私たちの人生の成長のためには不可欠なものです。しかし、どんなに私を思う心から出た忠告であっても、非難されているように感じ、傷つき、倒れてしまう時もあります。ですから、詩人がそうであったように、「拒絶することがありませんように。」と祈ることは、大切なことだと思います。

※ 昨日、誤って142篇を掲載してしまいましたので、今日、141篇を掲載せていただきます。

詩篇 142篇

「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。」(3節)

「神様は知っておられる」という事実は、私たちの日々の歩みに平安を与えてくれます。今も多くの人に愛されている賛美の中に「明日を守られるイエス様」というのがあります。こんな歌詞です。
「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は、私には分からないけど、明日を守られる、イエスがおられる」
私たちは見えない明日に、様々な不安を抱えて生きています。めまぐるしく変わる社会情勢を伝える新聞やニュースは、私たちの不安を煽るものの、平安を与えてはくれません。「あなたこそ、私の道を知っておられる方」という確信が、私たちの心に平安を与えてくれます。

詩篇 140篇

「私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ。」(6,7節)

LBでは、こう訳しています。

「ああ、私の救い主であり盾である主よ、この祈りに耳を傾けてください。」
天地万物を創造された偉大な神を、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぶことができることは、なんという特権でしょうか。しかも私たちは、このお方に祈ることができるのです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。しかし、そんな彼が生き長らえただけでなく、すばらしい人生を送ることができたのは、彼のこの信仰にあったことは明らかだと思います。私たちもダビデにならって、主を私の神、私の救い主、私の盾と呼ぼうではないでしょうか。私たちの主イエスは、そのために私たちのために十字架にかかり死なれ、よみがえられたのですから。「私の主、私の神、私の救い主、私の盾なるイエス様、あなたを呼び求めます。」

詩篇 139篇

「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(15,16節)

この世界に、偶然生まれて来た人はいません。この世界に存在するすべての人は、神様が存在することを望まれたがゆえに存在しています。私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていました。主のみこころのゆえに、一人一人は母の胎内で形成されていきました。目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。神様は「しまった」などと言うお方ではありません。私たちを形作り、私たちの存在を喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

詩篇 138篇

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」(3節)

私たちが主を呼び求めるなら、主は私たちの叫びに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださいます。LBでは、こう訳しています。

「あなたは必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」

私たちはどんなに、日々、力が必要なことでしょうか。力は、ただ、主から来ます。ですから、使徒パウロは言いました。

「力を与え、強めてくださる方によって、私は、神に求められるどんなことでもできるからです。」(ピリピ4:13LB)

「私のたましい」と訳された単語は、「私の人生(ライフ・いのち)」とも訳せます。神様は私たちの人生に力を与え、強めてくださるお方です。神のみこころを行うために、神様は私たちに力を与え、強めてくださるお方です。ただ私たちは、主を呼ぶ必要があります。膝をかがめ、力を与えてくださる主を認め、祈り求める姿勢が必要です。

詩篇 137篇

「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。」(5節)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。しかし、彼の心はいつもエルサレムにありました。彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?個人的にも神様は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。主日礼拝を大切にしましょう。主は臨んでくださいます。
今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

詩篇 136篇

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1節)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という言葉です。私たちが信じている神は、「トーヴ」、善い神です。私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。しかし、この詩篇では、くりかえしその理由は、

「その恵みはいつまでも絶えることがありません。」(LB)

と言います。原文を直訳すると、

「なぜならば、主の真実は永遠だから」。

私たちの神は、善い神であり、永遠に真実なお方です。聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:3)

この「誠実」と訳されたことばが、「恵み」と訳された言葉と同じ言葉です。私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に真実なお方です。このお方に、共に礼拝を捧げましょう!

詩篇 135篇

「まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」(5節)

私たちが信じている神は、大いなる方、偉大なる神です。私たちの問題よりも大きな神です。私たちの思いをはるかに超えて偉大なる事をなされる神です。私たちは、自分たちで自分の神を造ってしまっていないでしょうか。人間が作る神は、

「口があってもしゃべれず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、呼吸もしていない」(15-17節LB)神

です。

有限な人間が作った神は、有限な人間が考えられる範囲内でしかない存在です。まことの神は、聖書の神は、私たちを造られた創造主なる神です。無から有を生じさせる神です。たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神です。道が見えなくても、道を造ってくださる神です。私たちは、この大いなる方を、大いなる方として、認め、賛美しましょう!