詩篇 134篇

「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」(2節)

「都上りの歌」は、この詩によって完結します。「主の家」で主に仕え、賛美を捧げることがゴールです。それは、牧師になるという意味ではありません。ウェストミンスター小教理問答書にもあるように、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

神に栄光を帰す生き方こそゴールです。神に賛美をささげる方法の一つは、手を上げることです。手を上げる理由は、いろいろあります。私たちが両手を上げる時、それは、降参する時です。ですから、絶対者なる神に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を上げます。私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。神の前に両手を上げて、「主よ、臨んでください!」と叫ぶ時、実は、私たちは神を神として認めているのです。両手を上げて、神の栄光をあらわし、神を喜ぶことができますように。

詩篇 133篇

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことはなんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(1‐3節)

集まるということは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。ここに、私たちの理解を超えた世界があります。だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

詩篇 132篇

「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。」(14,15節)

イエス・キリストが

「ここにわたしは住もう」

とおっしゃられた場所、

それが教会です。

こう言われました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

二人でも三人でも、イエス・キリストのみ名によって集まるそのただ中に住むことを望まれました。その場所で、私たちを満ち足らせることを決められたのです。毎週日曜日、イエス・キリストのみ名によって集まることには、そのような意味もあります。

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

ですから、教会は、この世界の希望です。

詩篇 131篇

「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(2節)

LBでは、

「乳離れした幼児のように、主の前で静かにしています。もう、あれこれ願い事を並べ立てるのはやめました。」

と訳しています。これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況を現しています。私たちもまた、神の臨在の中で、同じように満足することができます。そして、これが神様への完全な信頼へ導きます。実際に、3節で、こうまとめています。

「あなたもまた、今も、これからも、静まって主に信頼しなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神への完全な信頼に私達を導いてくださいます。ですから、今日も、生ける神、主イエス・キリストの臨在を求めましょう。イエス様の臨在の中で、私たちは本当の満足を得ることができるのですから。

詩篇 130篇

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(5節)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。神の時に、神の方法で行なわれることを願うことです。私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。詩人は続けて言います。

「主を信じて希望を持ちなさい。主は恵み深く親切で、両手いっぱいの祝福をかかえて来てくださるからです。」(7節LB)

神の時は必ず訪れます。神は来られます。主を待ち望む者を、あふれるほど祝福するために来られます。最高の日は、まだ、これからです。
今日は主の日。主を待ち望み、共に礼拝を捧げましょう!

詩篇 129篇

「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」(4節)

ユージーン・ピーターソンという学者は「主は、正しくあり」を

「主はそれに甘んじず、私たちから離れない」

と訳しています。そして、こんなことを言っています。

「この詩で強調されていることは、神と私たちとの関係です。神は私たちのためにいつもそこにおられるということです。私たちの人生の中にある神の臨在こそが、私たちが人生を振り返ることができる理由です。」

キリスト者が人生を振り返り、神をほめたたえることができる理由は、神の臨在をそこに認めることができるからだと言います。どんなに辛かったことも耐え忍ぶことができたのは、そこに神がおられたからだと。辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、失望したこと、その所を祝福の場所として見るとき、痛みは詩の一行となります。

※ 明日は、リラの塚田献先生(高田聖書教会牧師)がメッセージです。

詩篇 128篇

「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」(2節)

聖書は自分の手の勤労の実を食べることは幸せなことと教えます。労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えます。この世においては

「自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはない」(伝道者3:22LB)

とまで言います。神を信頼して正しく生きようと努め、正当な報酬を受けるならば、本当の幸福を体験します。

「その人へのほうびは、繁栄と幸福です。」

「これこそ、主を信頼する人たちの姿です。主が天から祝福と喜びを注いでくださいますように。」(2,4,5節LB)

ジョン・ウェスレー師はこう言いました。

「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」

勤労の実である富と繁栄を何に用いてるでしょうか。主は言われます。

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」

詩篇 127篇

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)

神が建築責任者となってくださいますが、私たちが建てなければ家は建ちません。神が守ってくださいますが、見張りが必要ないというわけではありません。私たちの側がすべき分と神がなさる分があります。ですから、主を信頼することは、受け身になって、何もしなくてもいいということとは違います。逆に、謙遜に自分の分を努めることが求められます。神の御国がこの地にもたらされることを祈り求めるということは、自分がその神の使命(ミッション)に積極的に生きることも意味します。ただ、同時に2節のことばを忘れないようにする必要があります。

「主は、愛する者には必要な休息を与えようとなさるお方です。」(LB)

休息もまた、私たちの分です。

詩篇 126篇

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(5,6節)

神は私たちが涙の谷に行くことを許可されることがあります。目を泣きはらして出ていくことを許されることがあります。なぜなら、そのような状況の中で、人はやっと祈りに導かれて神のもとに行くことができることを知っているからです。砕かれて、神を求める時、神が答えてくれます。私たちが求める正しい相手は、生ける神、イエス・キリストです。主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。マイナスはプラスになります。万事は益となります。それを見て、人々は言うようになります。

「主は彼らのために、おどろくべきことをなさった。」(2節LB)