詩篇 125篇

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」(1,2節)

LBでは、こう訳しています。
「主を信頼する人は、シオンの山のように、どのような状況でも動じません。エルサレムがその周囲の山々に守られているように、主もご自分の民を取り囲んで、守ってくださいます。」

私たちの主は、私たちを取り囲んで守ってくださるお方です。ですから、どんな状況でも動じないというのです。私たちの心は、ちょっとした状況の変化にも動揺しやすいところがあります。すぐ、不安になってしまうこともあります。もっともシオンの山には、神の臨在の象徴である神殿がありました。「シオンの山のよう」という意味には主の臨在への意識があると思われます。まさに、主が共におられるということを認識することこそ不安に対する処方箋だからです。

詩篇 124篇

「「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。」(1節)

「もしも神が私たちの味方でなかったなら」と考えるだけで恐ろしくなります。すべてをご存じで、私たちを気にかけ、愛してくださっている神を信じるからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。私たちはイエス・キリストの十字架を通して確信をもつことができます。神の側から私たちの手を離すことはありません。しかし、私たちの方が、神の御手を振りほどき、自分勝手な道を突き進むならば、神と敵対して歩むことになります。ですから、わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があります。神とともに、歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

詩篇 123篇

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

礼拝は神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は神を見上げます。見下げたりしません。神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。週の初めの日、まず、神に目を上げることから始めましょう。

詩篇 122篇

「エルサレムの平和のために祈れ。『お前を愛する人々が栄えるように。』」(6節)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神の臨在の象徴だったからです。彼らはそこで神を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげました。エルサレムの重要性は時代が移り変わった今でも変わりません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレムの平和のために祈りましょう。また、神の臨在の象徴という意味で、自分が所属する地方教会のためにも祈るように命じられています。地方教会は世界の希望です。