ルカ 2章

「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」」(15節)

メリークリスマス!
クリスマス、羊飼いたちはイエス・キリストを見にベツレヘムに出かけて行きました。そして、

「羊飼いたちは、天使が語ったとおり幼子に会えたので、神を賛美しながら帰っていきました。」(20節LB)

今、人は、教会の中でキリストに出会うことができます。(黙示録1:13参照)教会の頭はキリストです。教会はキリストのからだです。(エペソ1:22,23参照)ですから、クリスマス、羊飼いたちがそうしたようにキリストを探し求めて教会に集まることは理にかなっています。羊飼いたちが見たキリストは飼い葉おけに寝ていました。

「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節)

教会はキリストがいる場所であり、キリストを求める人がいる場所です。

本日、19時よりキャンドルサービス(燭火礼拝)がもたれます。

ルカ 1章

「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」(38節)

「おことばどおりこの身になるように」と訳されたこの箇所を、英語の聖書で「レット・イット・ビー」と訳しています。ビートルズが、「そっと唱えて」と歌ったのは、「おことばどおりになるように」というマリヤの知恵の言葉です。「思うがまま、ありのまま」という利己的な言葉ではありません。「神様のみこころが行われますように」という信仰の言葉です。クリスマスは一人の信仰の祈りから始まりました。このクリスマス、私たちもマリヤの知恵の言葉を心に留めたいと思います。自分の思うように生きればいいというメッセージではありません。「神のみこころに生きられるように」という、信仰の祈りをささげることができますように。

マタイ 1章

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」」(20,21節)

神の御子イエス・キリストが、完全な人としてこの世に来られるためには、人の子として生まれる必要がありました。キリストは、ヨセフとマリヤの子としてこの世に生まれました。聖霊によってマリヤの胎に宿ったがゆえ、ヨセフの心は複雑でした。また、結婚前に身ごもりましたので、当時の律法ではマリヤは死刑になる恐れもありました。そんなヨセフのところに主の使いが夢に現れ、ヨセフは

「主の使いに命じられたとおりに」(24節)

したとあります。この信仰がクリスマスの背景にあることを私たちは忘れてはいけないと思います。

雅歌 2章

「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(2節)

谷間のゆりのように、花嫁はいばらの中のゆりのようだと言います。これがイエス・キリストが教会を見る目です。私たちは罪の問題があるこの世界に存在しています。しかし神は、私たちにある美しさに目を向けられているというのです。時には、自分たちも汚染されてしまっているように感じる時があります。でも、キリストは私たちを見て、私たちの美しさを見るというのです。私たちをいばらとは見ないのです。なぜならば、キリストが私たちのためにすでに十字架の上で死んでくださったからです。イエス様の十字架は自分のためだったと信じ受け入れるならば、私たちはキリストの血潮によって美しくされるのです。たとえ、私たちの汚れが緋のように赤くても、雪のように白くする力があるのです。

雅歌 1章

「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(3節)

雅歌は「歌の中の歌」とも呼ばれますが、夫婦の愛の詩です。聖書は結婚という文脈の中において、夫婦がお互い求め合うことを大切にしています。しかし、それはまた同時に、エペソ5章にあるようにキリストと教会との関係として解釈することも大切です。
今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。」

クリスチャンにとって、イエス・キリストの名前はかぐわしい名前です。

「イエス様」

と名前を口にするだけで、幸せな気持ちになります。イエス・キリストとの人格的な関係があるならば、「イエス様」という名前は特別な名前だからです。このクリスマスの季節、一人でも多くの人が、本当の主人公である「イエス様」の名前を呼ぶことができますように。

伝道者 12章

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(13節)

LBではこう訳しています。

「これが私の最終的な結論です。神を恐れ、その命令に従いなさい。これこそ人間の本分です。」

つまり、この伝道者の書を通して、ソロモン王が導かれた最終的な結論はこれです。

「私は人ができるすべてのことをやってみた。人生の答えは、快楽の追求でもなければ、権力の追求でもなく、ましてや、所有物の追求でもなければ、知識の追求でもない。人生の意味は、神への畏れの中にある。」

伝道者の書のキーワードは「日の下」です。神を抜きに考えるとすべては「空の空」であるということです。ですから、神を認め、神を恐れ、聖書のみことばを守って生きることが本来あるべき人間のあるべき姿となります。そうする時に、人生に意味を見出し、豊かな人生を歩むことができると言うのです。

伝道者 11章

「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。」(4節)

用心深いことは悪いことではありませんが、機会を失う可能性もあります。LBではこう訳しています。

「しかし、風の状態が良くなるまで待っていたら、何一つなすことはできない。」

特に今日の文脈は善を行うことを積極的に勧めています。

「惜しみなく与えよ。あなたが与えたものは、あとになって戻ってくるからだ。持っているものを、人々に分け与えよ。あとになってあなたも人から助けてもらうことになるからだ。」

「手を休めずに種をまきなさい。どの種が芽を出すか、わからないからです。もしかしたら、全部芽を出すかもしれません。」(1,2,6節LB)

「ですから、機会あるたびに、だれに対しても、特に信仰を持つ人たちには親切にしましょう。」(ガラテヤ6:10LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

伝道者 10章

「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。」(10節)

新共同訳はこう訳しています。

「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」

無知のゆえに不要な遠回りすることがあります。日頃の学びが人生の助けになります。LBはこう訳しています。

「斧の切れ味が悪くなると、余計な力がいる。そんなときには刃をとぐことだ。」

斧の刃をとぐ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。同じように、学ぶ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。学べば学ぶほど、知らないことに気づき、私たちの生き方にも変化をもたらします。12節には、こう記されています。

「知者の口の言葉は恵みがある、しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。」(口語訳)