イザヤ 53章

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節)

イザヤ書53章は、「苦難のしもべ」と呼ばれる箇所で、イエス・キリストの預言として新約聖書で引用されています。使徒ペテロもこの箇所を引用してこう言っています。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

LBでは4節をこう訳しています。

「しかし、彼は私たちの悲しみを負い、私たちの嘆きをにないました。」

キリストの受難はとても残虐です。

むち打たれ、

いばらの冠をかぶらされ、

あざけられ、

手と足には釘を打ち付けられ、

十字架にかけられ…。

「これらすべては私のため。私のためにキリストはしてくださった。」

そのことが認識することが出来てはじめて、私たちの人生は一八〇度変わります。そして、いやしをもたらします。

イザヤ 52章

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(7節)

聖書が言う「良い知らせ」「福音」とは、

『あなたの神が王となる。』

と告げ知らせることです。四つの福音書すべてに、イエス・キリストが十字架に架かられた時、その罪状書きに

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことが記録されています。神は神の御子キリストが十字架に架かられることによって王となられました。そして、キリストが三日目に死から復活されたことを通して、最後の敵である死をも滅ぼされたことを示しました。死のとげは切り取られました。ですから、よみがえられたイエス様は言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

福音とは、十字架の御業を宣べ伝えることです。

リラのストアライブ

先ほど無事新宿のオアシスでのストアライブを終えることができました。思った以上に人が沢山来てくださって、しかも物凄く近い距離だったのでとても緊張しました。ライブ中メンバーがこの20年以上になる活動を振り返って話をしていたので、賛美しながら、ここまでの歩みを改めて思い起こしました。神様、この場所で私たちが大勢の人々を前に賛美をすることなど、誰が想像したでしょう、と。私たちの未来は、私たちが決めているようで実は全くそうではないのですね。神様が導く、当時には全く想像もできなかった未来の自分を、過去の自分が見つめているような不思議な感覚に包まれました。その過去の自分のそばに、イエス様が共に立っておられるような感覚は、これからも折に触れ思い出すでしょう。これまで共に歩んでくださった主に、これからも従っていくことができますように。そんな祈りを持ってこのライブを行うことができたことを感謝します。お祈りして頂きありがとうございました。

主の栄光だけが光輝きますように!
(小山晶子牧師夫人)

イザヤ 51章

「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(3節)

神の約束はイエス・キリストによってすでに成就しました。罪の呪いはすでに除かれました。しかし、まだ、私たちはこの預言に約束された秩序や美しさや豊かさの完全な回復を見ていません。これらはイエス・キリストが再臨される時に完全に成就します。神の国は今、キリスト者たちを通してこの世界に浸透しています。キリスト者がこの世界でひざまずき、祈りを捧げることを通して、主が慰めをもたらされます。私たちが礼拝を捧げるその場所、楽しみと喜び、感謝と歌声があるその場所を、主が主の園のようにしてくださいます。今日は主の日。心から神を楽しみ、喜び、感謝と歌声を上げ、主に荒野を主の園のようにしていただこうではないでしょうか!

イザヤ 50章

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(4節)

LBではこう訳しています。

「神である主は私に、知恵のことばを授けました。疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるためです。朝ごとに、主は私を目覚めさせ、御心への理解を深めさせてくれます。」

神は、朝ごとに、聖書のみことばを与えてくれます。私たちは聖書を開くたびに、御心への理解が深められていきます。興味深いことは、神が私たちに御言葉を授けてくれるのは

「疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるため」

だと言います。私たちは自分の教養のためというよりも、人々を励ますために日々神のみことばを受け取る必要があります。

イザヤ 49章

「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」(16節)

LBではこう訳しています。

「見よ。わたしはあなたの名を手のひらに刻んだ。わたしの目の前にはいつも、崩れたエルサレムの城壁が見えている。」

私たちは時として、

「神様は自分のことなんか忘れてしまったのではないか」

と感じてしまう時があります。

しかし、

それはありえない

と聖書は言います。

私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じる時に、私たちの名は神の手のひらに刻まれるというのです。ただ、墨字で書くのではなくて、永遠に残るように刻むというのです。つまり、神が私たちを忘れることはないということです。そして、神は私たちの状況もしっかりと分かっていると言います。神は決して私たちを見放さず、見捨てません。

イザヤ 48章

「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(17節)

聖書の神は、私たちに益になることを教え、私たちを導いてくださる主です。具体的に、聖書には、私たちの益になることが記されています。ですから使徒パウロもこう言っています。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3:16新共同訳)

さらに聖書は私たちに有益なだけでなく、私たちの歩みを導いてくれるものでもあります。ですから、詩人はこう歌っています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105新共同訳)

イザヤ 47章

「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(13節)

この箇所はバビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、

「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)

ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。助言を求めることがすべて悪いことではありませんが、まず、まことの神に祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。

イザヤ 46章

「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(13節)

神の時があります。今日の箇所の前半部分をLBではこう訳しています。

「わたしはあなたがたを救う。遠い将来ではなく、今すぐに。すでにあなたがたを救う準備は整った。」

神の御業は遅れることはありません。最高のタイミングで成し遂げられます。ですから、詩人もこう言っています。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩46:1)

神は遠い存在ではありません。私たちの祈りに答えてくださる主は、今も生きておられ、今すぐに答えてくださる主です。それでも祈りの答えが遅れているとするならば、そこに神のご計画を認める必要があります。

イザヤ 45章

「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(2節)

イエス様は弟子たちに

「さあ、ついて来なさい」(マルコ1:11LB)

と言われました。ついていくためには、イエス様の後ろを歩く必要があります。信仰生活は、まさに

イエス様の後ろを歩く

ようなものです。イエス様が前に進んでいるならば、険しい地は平らに、青銅のとびらは打ち砕かれます。さらにこの次の3節にはこんな約束があります。

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

イエス様の後ろを歩いていくならば、隠された財宝、だれも知らない富が与えられるという世界もあると言います。私たちはイエス様の後ろを歩いているでしょうか?それとも、イエス様を見失っているでしょうか?