歩きたくなる最近

厳しい寒さから一転、先週金曜日は春一番が吹き荒れ、薄手のコートで十分過ごせる暖かい一日でした。肩をすくめて歩かなくていい気温にほっとした方も多かったのではないでしょうか。わたしもデイからの帰り道、ゆっくり歩いて帰りたくなりました。夕日がちょうど沈むころに帰路に就いたのですが、見事なオレンジと空色のグラデーションに目を奪われました。空は少しずつ表情が変わってゆき、家に着くころにはすっかり日が落ちていました。でもそんな空を星がキラキラと瞬くまで眺めながらの道のりは、何とも言えない幸せな時間でもありました。次男の受験やそのほかいろいろなことに心が落ち着かない日々でしたが、神様の創られた素晴らしい作品はただそれを見つめるだけでわたしを励ましてくれていました。皆さんは毎日の生活で疲れていませんか。御言葉を読む気力がない、と嘆いていませんか。そんなときはただ神様の創造の中に身を置き、味わい、見つめることができますように。今週も神様の恵みの中を歩むことができる幸いを感謝します。  (小山晶子牧師夫人)

イザヤ 44章

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(22節)

44章の前半は、

「偶像を造り、それを神にするとはなんと浅はかな者でしょう。そんな者たちの希望はむなしい夢にすぎません。」(9節LB)

とあるように、人が手で作った命もない偶像を礼拝することがどれほどむなしく、愚かなことかということが記されています。

「これはただの木切れではないか。…その残りが神ということがありえるだろうか。木切れにひれ伏すなど、ばかげている。」(19節LB)

私たちを造られた神はこの世界のすべてを創造されたお方です。このお方は言われます。

「さあ、わたしのもとに帰ってきなさい。あなたを自由にする代価は支払いずみだ。」(LB)

今日は主の日。主のもとに帰り、礼拝を捧げましょう。

イザヤ 43章

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(4節)

私たちを造られた神は、誰がなんと言おうとも、私たち一人一人は高価で尊い存在だと言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を肯定するよりも、否定することの方が多いと思います。悪魔というのは、私たちの存在、人格を否定することによって攻撃するのです。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しています。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。

イザヤ 42章

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」(1節)

42章から「苦難のしもべ」と呼ばれるイエス・キリストに関する預言が語られています。

「彼は穏やかで、大声を上げたり路上で言い争ったりしない。いたんだ葦を折らず、今にも消えそうな火でも消さない。気落ちしている人を元気づけ、もうだめだとあきらめる者を励ます。こうして、痛めつけられた者たちに完全な正義が与えられるのを見届ける。」(2-3節LB)

イエス・キリストは、いたんでいるからといって、その葦を折ってしまうような方ではないと言います。今にも消えそうだからと言って、その火を消してしまうようなお方ではないと言います。イエス・キリストは死さえも打ち破りよみがえられたお方です。このお方はどんなマイナスも必ずプラスにしてくださいます。どんな人であってもあきらめることはなさいません。

イザヤ 41章

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10節)

今日、この神の約束を自分のものとすることができますように。どんな問題や困難があっても、神が共にいてくださるという約束を自分のものとすることができますように。LBではこう訳しています。

「恐れるな。わたしがついている。取り乱すな。わたしはあなたの神だ。わたしはあなたを力づけ、あなたを助け、勝利の右の手でしっかり支える。」

この約束を心に生きていくことができますように。使徒パウロもそのように生きていました。パウロはこのように表現しています。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

イザヤ 40章

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」(28,29節)

イザヤ書は40章から雰囲気が変わります。ですから、学者によっては別の人が書いたのではないかと推測もされています。ちょうど、旧約聖書は39巻あり、40巻から新約聖書がはじまるように、この章から希望を感じるような預言が増えます。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「まだわからないのですか。全世界を造った永遠の神は、決して疲れたり、衰弱したりしません。神の知恵の深さを推し測ることができる者は、一人もいません。神は疲れた者に力を、弱い者に活力を与えます。」

聖書の神は疲れた者に力を与えてくださる神です。弱い者に活力を与えてくださる神です。

イザヤ 39章

「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。」(8節)

「主のことばはありがたい」の「ありがたい」という言葉の原語は、英語の「good」にあたる言葉が使われています。ですから、ヒゼキヤは「YHWH(聖書の神の名)のことばはgood(良い、すばらしい)です。」と言ったというのです。イザヤは裁きの言葉を告げたのにも関わらず、「神の言葉だから良い」と受け止めたというのです。もっとも、ヒゼキヤの動機は自己中心的にも受け止められますが、それにしても、「神の言葉だから良い」という姿勢は学ぶ必要があります。自分の耳に心地よいから良いのではなく、神のことば、聖書のことばだから良いという姿勢をもつことが大事なのだと思います。理解できなくても、神のみことばを良しとして受け止めていけますように。

イザヤ 38章

「「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」(5節)

神は私たちの祈りを聞き、私たちの涙をご覧になるお方です。イエス様もこの地上で、涙をもって祈ったことが記されています。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せば聞かれるという意味ではありません。口先だけではなく、全人格的な祈りを神は望んでおられるということです。神は流暢な言葉よりも、全身全霊の祈りを待っておられるということです。

イザヤ 37章

「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(23節)

アッシリヤ軍は、エルサレムに攻め入ることはできませんでした。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」(10,11節)

しかし、ヒゼキヤ王は、アッシリヤ王の言葉よりも神を信頼することを選び、神が救い出されることを体験しました。歴史的にも、アッシリヤ帝国は、この後、滅亡の一途を辿ります。

今日は、主の日です。たとえアッシリヤ王のような言葉が聞こえてきても、私たちは神を信頼し、礼拝を捧げましょう。

イザヤ 36章

「ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(4節)

アッシリヤ軍がエルサレムを包囲した出来事は、聖書以外にも文献が残っています。ですから、歴史上本当に起こったことであると認められています。この時、まさにヒゼキヤたちは、何に拠り頼んでいるかが試されました。ラブ・シャケはエルサレムの人々に言いました。

「ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。」(15節)

しかし、ヒゼキヤをはじめ、エルサレムの人々は、主を信頼することを選びました。そして、彼らは生ける神の救いを体験しました。

「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブ10:39)