イザヤ 35章

「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(5,6節)

バプテスマのヨハネは獄中でイエス様のことを聞き、弟子たちを遣わして、

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

と尋ねさせます。すると、イエス様はこう答えられます。

「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見ない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4-6)

つまり、今日の箇所は、イエス様が来られたことによって成就しました。

イザヤ 34章

「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」(16節)

LBではこう訳しています。

「主の書を調べて、主がこれからどうするかに目を留めなさい。ただの一つも連れ合いを欠きません。その地には、つがいでないものはいません。主がそう命じ、主の御霊が、そのとおりになるようにしたからです。」

イエス様もこうおっしゃられました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

ですから、聖書を調べることは大事なことです。聖書がそう語っているなら、そのようになります。たとえ、今、自分の目にはそう見えなくても、神のことばは滅びることはありません。聖霊なる神様は今も、そのとおりになるようにしておられます。

イザヤ 33章

「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24節)

ここで言われている「そこ」とは、「神の国」、「天の御国」のことだと思われます。私たちはこの世に生きている限り病気をします。どんなに癒されても、やはり病気をし、死に直面します。そして、病気をするたびに、自分は神ではなく、有限な人間であるということを痛いほど教えられ、謙虚にさせられます。完全な人などこの世には存在しません。しかし、神はこうおっしゃられました。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)

神は私たちをいやしてくださるいやし主です。神の国はすでに来ているので、病気はいやされます。しかし、まだ完全ではありません。ですから、死の後の後、天の御国で、私たちはみな完全にいやされた状態で永遠に生きます。

「主よ、あなたがいやし主であることを感謝します。」

イザヤ 32章

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15節)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「しかしついには、天から御霊が注がれ、再び、見渡す限りの豊かな収穫が見られるようになります。」

聖霊なる神が臨まれる時、大きな変化が起こるという世界があります。日頃のコツコツとした積み重ねが大切なことは当然ですが、聖霊が臨まれるという神の領域があることを認識することも大切なことです。私たちは自分の限られた能力ではなく、無限の神に希望を抱いて生きることが大切です。メッセージ訳はこう訳しています。

「そうです。泣くのも悲しむのも上から私たちに聖霊が注がれるまでです。」

私たちの涙が喜びに、悲しみが踊りに変えられる神の時があります。その日を待ち望みつつ、今を生きることができますように。

イザヤ 31章

「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(1節)

私たちは目に見えるものに弱い傾向があります。目に見えない神を求めるよりも、目に見える何かに拠り頼む方が確実に思えてしまうのです。しかし、3節で神はこうおっしゃられます。

「エジプト人はただの人間であって神ではありません。その馬は取るに足らぬ動物で、どんなものでも蹴散らす霊ではありません。主がこぶしを振り上げると彼らはつまずき、助けるはずだった人たちの間で倒れ、どちらも滅んでしまいます。」(LB)

私たちは、まず、神を求める必要があります。公民権運動で有名なキング牧師がこんなことを言っています。

「日々が暗くなり、夜が寂しくなろうとも、上で支配している神がおられることを理解してほしい。」

イザヤ 30章

「彼らは予見者に『見るな。』と言い、先見者にはこう言う。『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」(10,11節)

終わりの時代には

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、間違った教えにしっぽを振ってついて行くのです。」(?テモテ4:3,4LB)

と言います。私たちは自分好みの話ではなく、聖書の話を求める姿勢が大事です。今日の箇所の民の言葉をLBはこう訳しています。

「ほんとうのことなど、どうでもいい。耳ざわりのいいことだけを話してくれ。うそでもかまなわない。陰気くさいことはまっぴらだ」
今日は主の日。教会は聖書が語られる場所です。

イザヤ 29章

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(16節)

今日の箇所は、私たちが創造主なる神に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。神は私たちを造られた神であり、私たちは神に造られた被造物です。神は神であり、人は人です。人が神になることはありません。しかし、人は倒錯を起こして、創造主なる神に対して「神は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れてはいけません。私たちは有限な人間であり、無限の神と対等の存在ではありません。神を神として認めることができますように。

イザヤ 28章

「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16節)

今日の箇所は、新約聖書で引用されています。

「『見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。』キリストは、信じる者にとっては何よりも尊い方ですが、キリストを拒む者にとっては、『つまずきの石、妨げの岩』となりました。・・・彼らのつまずきの原因は、神のことばに耳を傾けず、従おうとしないことです」(1ペテロ2:6-8LB)

「試みを経た石」とは、何度も試みを受けた試験済みの石という意味で、信頼できるということです。イエス・キリストが信頼できる石であるということは、歴史を通じて、証明されてきたことでもあります。

イザヤ 27章

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(6節)

100年ほど前、この預言は夢のような話でした。イスラエルの国はまさに荒野であり、植物とは無縁な土地だったのです。ですから、ありえないという比喩としか理解することはできませんでした。しかし、1900年代のはじめ、ユダヤ人たちはアラブ人たちから荒れた土地を買い、その土地に植物が育つように改良しました。今、イスラエルに行くならば農地を見ることができます。そして、世界でも五本の指に入る果物輸出国となっています。(日本でも、ヤッホ・ルビーと呼ばれるイスラエル産の果物が輸入されています。)神は2700年ほど前に、すでにこのことが起こることを知っておられました。

「やがてイスラエルが根を張り、つぼみをつけ、花を咲かせ、世界をその実で満たす時が来る。」(LB)

神にできないことはありません。神の約束は必ず成し遂げられます。

イザヤ 26章

「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(4節)

信仰とは一時的なものではなく、人生を通して持ち続ける継続的なものです。ですからLBではこのように訳しています。

「どんな時でも、神である主に信頼しなさい。あなたの永遠の力は主のうちにあるからです。」

3節にはこのように記されています。

「志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

「全き平安」と訳された言葉の原文は「シャローム、シャローム」です。最上級の平安という意味です。「ヤハ」は「ヤハウェ」、神の名前です。どんな時でも神を信頼して生きていくならば、尽きない力、最上級の平安の中に生きることができるという約束です。このことを使徒パウロは次のように表現しています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)