エレミヤ 14章

「異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」(22節)

LBではこう訳しています。

「どこの国の神が、私たちのために雨を降らせるでしょう。私たちの神、主以外に、そんなことのできる方はいません。ですから私たちは、あなたが助けてくださるのを待っています。」

イエス・キリストは言いました。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27)。

私たちが信じている聖書の神は何でもできる神様です。ですから私たちはこのお方、イエス・キリストを待ち望むのです。このお方こそ、

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。

エレミヤ 13章

「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。」(15節)

メッセージという訳ではこう訳しています。

「聞きなさい。注意深く聞きなさい。あなたのやり方に固執してはいけない。ここでは、神のメッセージを取り扱っているのだから。」

自分の考え、自分のやり方に固執しすぎますと、神のみことばを聞くことができなくなってしまいます。自分の哲学が神のみこころを理解しようとする思いを邪魔するのです。そもそも自分の考えと神の考えを天秤にかけてしまうこと自体、思い上がっているということを示します。謙遜に神のことばを聴くかどうかは、私たちの選択に委ねられています。使徒パウロもこう言っています。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17新共同訳)

「主が語ったのですから、素直に聞きなさい。そのように思い上がり、強情を張ってはいけません。」(LB)

エレミヤ 12章

「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」(1節)

神に質問をすることは、悪いことではありません。生きている限り、疑問を持つことがないほうが不自然です。しかし、神に挑戦することは問題です。エレミヤは、

「神様が正しいのは分かっていますが、二,三のことを話させてください」

と言います。それは、不信仰だということではなく、信じているがゆえの質問であり、神はそれを受け止めてくださいます。しかし、

「もし、神様が正しいなら・・・」

という類のものは別です。これは、神が正しくないと反抗していて、人生を迷宮入りにさせてしまいます。詩篇73篇の作者も同じような疑問に苦しみました。詩人は

「ある日、神の聖所で瞑想していた時、…悟った」(17節)

と言います。み言葉を瞑想(meditate)する時間は大切です。

エレミヤ 11章

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から導き出した日に、彼らをはっきり戒め、また今日まで、『わたしの声を聞け。』と言って、しきりに戒めてきた。」(7節)

LBではこう訳しています。

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトから助け出した時から今日まで、くり返し、『わたしのすべての命令に従え』と言い続けてきた。」

イエス様が与えた命令は二つだけです。

「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」」(マルコ12:29-31)

神を愛し、隣人を愛すると、主がくり返し言い続けていることを私たちは心に留める必要があります。

エレミヤ 10章

「主はこう仰せられる。「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。」(2節)

古くからバビロニアで占星術がよく行われていたことは歴史的に認識されています。ですからLBではこう訳しています。

『星占いで、自分の運命や将来を知ろうとする者のまねをしてはいけない。』

占いの危険性は、その占いに人生が縛られてしまうということがまず挙げられます。占いは、結局、その人を支配します。もちろん、悪霊の問題もあるのですが、それ以上に神を求めるということを妨げます。神のみこころを求めて、祈り、聖書を読むという神との親しい関係を築くことを妨げます。神の計画は、はっきりしています。神は言われます。

「それは災いではなく祝福を与える計画で、将来と希望を約束する。」(エレミヤ29:11LB)

カリフラワー

イスラエル大使館のホームページにあちらでよく食されている前菜のレシピが紹介されていました。すべて野菜料理なのですが中でも目を引いたのがカリフラワーを丸々一個使った前菜。ちょうどブロッコリーやカリフラワーが手ごろな値段で登場してきた時期とも重なり、さっそく作ってみることにしました。

まず、カリフラワーを洗って丸ごと塩ゆでします。固めにゆでるのがポイント。茹で上がったら、パプリカパウダー、ガーリックパウダー、塩コショウ、オリーブオイルをしっかりすりこみます。その後180度に熱したオーブンで30分焼けば完成。『今日はイスラエル料理を作ったんだ』と家族に言いふらし、オーブンから取り出したアツアツの、おいしそうな焦げ目のついたカリフラワーを食べてみました。感想ですか?焼いて焦げ目のついた塩味のカリフラワーの味です。カリフラワー以上でも以下でもない味。何のためにオーブンで30分も焼いたんだろう…。かくしてわたしのイスラエルへの想いはますます深まるのでありました。  (小山晶子牧師夫人)

エレミヤ 9章

「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ。―」(24節)

岩波訳で前の節と合わせて短い箴言風の断片としてこの箇所を紹介しています。

「誇らないように、知恵ある者は自分の知恵を。誇らないように、強い者は自分の強さを。誇らないように、富む者は自分の富を。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。まことに、わたしこそヤハウェ、地に、恵みと公正と正義を行なう者。まことに、これらのことをわたしは喜ぶ。‐ヤハウェの御告げ‐。」

いつの時代でも人間は、「知恵」「強さ」「富」を誇ります。しかし、使徒パウロは言います。

「『…自分を誇るな』と旧約聖書にあるとおりです。自分を誇り、その業績を自慢する人は、つまらない人間です。」(2コリ10:17,18)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

エレミヤ 8章

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(11節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「彼らは、実際には平安がないのに、すべてがうまくいくと保証する。こうして、わたしの民のひどい傷に、効き目のない薬を塗っている。」

私たちの時代の問題の一つは、まさに、手軽ないやし、効き目のない薬を塗っているということだと思います。一人一人が神に心を注いで祈り求めることよりも、手軽なレシピを提供しようとします。聖書を開いて神のみことばを待ち望むよりも、手軽な助言を与えようとしてしまいます。本当のいやし、効き目のある薬は、イエス・キリストとの直接的な関係から流れてきます。私たちが本当にすべきことは、私たちの必要に唯一答えることができるイエス・キリストを指し示すことです。

エレミヤ 7章

「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」(4節)

神は

「偽りのことばを信頼してはならない」

と言います。当時のエルサレムの人々は神殿がエルサレムにあるから自分たちは大丈夫、安全だと思っていました。しかし、それは偽りのことばを信頼していると言います。どんなにエルサレムに神殿があっても、神を神として、神のみことばに聞き従う姿勢がなければ滅びると言います。神は言われました。

「次のことを守らなければ、ここにいることはできない。悪い思いと行いを捨て、人には公正に接し、みなしご、やもめ、外国人をだましたりしないこと。人殺しをやめること。偶像を拝んで自分を傷つけるような愚かなまねはしないこと。」(5,6節LB)

偽りのことばに振り回されないためにも、私たちはしっかりと聖書のみことばを学ぶ必要があります。

エレミヤ 6章

「エルサレムよ。戒めを受けよ。さもないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを住む人もない荒れ果てた地とする。」(8節)

LBではこう訳しています。

「エルサレムよ、これが最後の警告だ。わたしの言うことを聞かないと、この町をだれも住めないようにする。」

神のことばに耳を傾けないということは致命的であると言います。私たちはそれほどの意識をもって神のみことばである聖書に向かっているでしょうか?もっとも、エルサレムのように、神に背を向けた人たちを神があきらめられるという意味ではありません。今も神は、恵みの御手を伸ばして、すべての人が神の方に戻ってくるのを待っておられます。エレミヤはまさにエルサレムが陥落した後に、このように歌っています。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)