エゼキエル 45章

「正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを使え。」(10節)

神は正しい度量衡を使うことを命じています。考えて見ますと、私たちの問題の多くは、この量りの問題でもあります。私たちは他人に対してと自分に対しての量りが違うのです。ですから、イエス様も言いました。

「あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)

誰かが自分に対してそのことをするならば、赦されないようなものであっても、自分が他人に対してならば、赦されるものになってしまったりするのです。ですから、聖書は、正しい量りを持つように命じています。もっとも、イエス様は、その前の節でこう言っています。

「人のあら捜しをしたり、悪口を言ったりしてはいけません。自分もそうされないためです。人には広い心で接しなさい。そうすれば、彼らも同じようにしてくれるでしょう。」(LB)

エゼキエル 44章

「しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。―神である主の御告げ。―彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。」(15,16節)

キリスト教会とは、キリストをあがめ、神のみ言葉である聖書が語られる所です。二〇世紀、近代主義の影響で自由主義神学と呼ばれる聖書の権威を否定する運動が起こりました。その中で、残念ながら聖書を神のことばとして語るという任務を放棄してしまう人々が出ました。しかし、どんなに批判されても誠実に聖書を神のことばとして語り続けた人々もいました。その一人が、ビリー・グラハム。神は誠実に任務を果たし続けた人を用いられました。今も神は忠実な人を探しておられます。

エゼキエル 43章

「今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。」(9節)

神殿が意味することは「彼らの中に住む」という神の臨在であり、それが、イスラエルの人々が失ったものでした。彼らが神の臨在を失った原因は、神以外のものを神としたことでした。神がどのようなお方か、私たちは聖書を通してのみ明確に知ることができます。ですから、もし、聖書のみことばよりも権威をもつものがあれば、キリストの教会であっても、神の臨在を失う可能性があると言っても言い過ぎではないと思います。聖書のみことばよりも権威をもつものは、取り除かなければなりません。私たちは、何よりも神の臨在を優先させなければなりません。
「主よ、聖書のみことばを感謝します。 聖書こそ、私たちの信仰と生活の唯一の規範です。主が、私たちの中に、永遠に住まわれますように。」

エゼキエル 42章

「祭司たちは聖所にはいったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。」(14節)

ピリピ書にこういう箇所があります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(2:6,7)

私たちの大祭司であるイエス・キリストは、私たちのところに来るために、「神のあり方」を脱がれて、人となってこの地に来てくださいました。完全な神が、完全な人となられたのです。私たち人間に近づくためには、「神のあり方を捨てる」以外にはなかったのです。無限の神の御子が、私たちに近づくために有限な人間になられた意味を考えたいと思います。

エゼキエル 41章

「彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。」(4節)

エゼキエルは、幻によって再建すべきエルサレムの神殿の設計図をいただきました。それは、漠然としたものではなく、非常に詳しく、壮大なものでした。ところがエゼキエルはこの時、捕囚されて、バビロンにいたのです。彼らの状況はそれどころではありません。しかし、神殿は、私たちの可能性の上に建てるものではなく、神の設計図に従って建てるものです。私たちが今建て上げていくべき神の神殿は、教会です。Ⅰコリント3:16には

「あなたがたは神の神殿」

とあります。教会は私たちの可能性の上に建てるものではありません。私たちは、自分たちの状態がどのようであっても、神の設計図に従って、建て上げていく必要があります。私たちが願うような、私たちが考えるような教会像ではなく、神の設計図に従って建てられなければなりません。

エゼキエル 40章

「それから、彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その幅は一さおで、もう一つの門の敷居も幅は一さおであった。」(6節)

ユダヤ人たちは、エルサレムに「上って」行くと言います。彼らが神殿につくと、「階段を上って」門の敷居に行きました。まさに彼らは階段を上っていくことによって、神を礼拝することが、引き上げられる体験であることを意識していたのです。神は私たちを引き上げられるお方です。この世界には私たちを傷つけ、貶めるものが多々あります。しかし、神は私たちを礼拝に招き、私たちに語りかけます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

神に礼拝を捧げる中で、賛美と祈りを捧げる中で、私たちの霊も信仰も引き上げられていきます。今日は主の日。神は今日も、私たちを引き上げるために、私たちを招いています。共に、礼拝を捧げましょう。

エゼキエル 39章

「わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。」(29節)

終わりの日、キリスト者が携挙された後に神はもう一度イスラエルの国に関わられます。イスラエルのような小さな国が、今、多くの人々の関心を得ているのは偶然ではありません。その日が近づいている証拠だと言えます。

「わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。」(27,28節)

1948年5月14日以来、この預言は成就しています。さらに興味深いことは、15節、その日の前に、死体を見つけると、見つけた人が葬らずに標識を立て、専門の人に葬らせると記されています。化学兵器のことかもしれません。エゼキエルの時代に化学兵器はありませんが、この世の終わりに起こる出来事として見たのかもしれません。

エゼキエル 38章

「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる」(8節)

38章は終わりの日の預言だと考えられています。チャック・スミス師は、この38章に出てくる国々は、イスラム圏の国々で、イラン、エチオピア、リビア、そして旧ソ連の南部のイスラム圏の国々を指していると言います。これらの国がやがて結束してイスラエルに攻め入ると言います。9節の「地をおおう雲」は、戦闘機の一団ではないかと言われます。もちろんエゼキエルが戦闘機を知る由もありませんから、彼は「地をおおう雲」としか表現できなかったのだと。今の世界情勢は、私たちに対する警告であるということを心に留めたいと思います。

エゼキエル 37章

「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。」(24節)

イスラエルの国は、ソロモン王の支配の後、北王国と南王国に分断されます。しかし、新しい契約では一つとなると言います。

「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」(22節)

彼らを治める「全体の王」、「ひとりの王」、「わたしのしもべダビデ」こそ、ユダヤ人が待ち望んでいた「ダビデの子」、「メシヤ」です。使徒パウロは二つの国を北王国と南王国の枠を超えて理解しています。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

エゼキエル 36章

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(27節)

イスラエルの民はエジプトを脱出し、シナイ山で律法をいただき、契約の民となりました。しかし、彼らは律法をないがしろにし、バビロンに捕囚されます。神がそんな彼らに与える新しい契約は、石の板に刻まれた律法ではなく、彼らのうちに授ける聖霊だと言います。彼らの内に聖霊が住み、導くと約束します。ペンテコステの日、この約束は成就しました。その日、ペテロはこう説教しました。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:38,39)