ホセア 2章

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(14節)

神は私たちをくどかれるお方だと言います。私たちがどんなに不誠実でも、神は私たちを愛することをやめることはできません。しかし、神が私たちをくどいて、優しく私たちに語るために連れて行く場所は、「荒野」だと言います。「荒野」と聞いて連想することは、「試練」だと思います。確かに、私たちは「試練」の中で、祈りに導かれ、その中で、神の優しい語りかけを聞くことが多々あります。そう考えると、もしかしたら、私たちの人生の中に起こる試練は、神のくどきと言えるかもしれません。ですから、荒野のような時こそ、私たちは神の優しい語りかけを聞く時ということを意識して、祈りつつ、御言葉に耳を傾ける必要があります。神は優しく、語ってくださいます。

大波小波

あっという間に一か月が過ぎ、7月最後の日曜日を迎えました。あさってからは八月。すっきりしないお天気が続き、湿度も高くてなんだか身体が重だるい気がします。皆さんはいかがお過ごしですか? わたしはタイトル通り、大波小波が繰り返す日々です。病気ではなくとも、わたしたちは心の振り子の振れを感じながら過ごしているのですが、それと信仰を結び付けて罪責感の中に生きているクリスチャンが多いのではないかと思います。つまり、自分の調子の良い時は神様に愛されていると感じ、自分が落ち込んで思うように動くことができないと、こんな自分を神様は愛してはくださらない、と思うのです。自分の弱さを感じた時に初めて、わたしたちは「無償の愛」の本当の意味を知ることができるのかもしれません。そして「弱い時に強い」という御言葉を体験できるのではないかと思います。そう考えると、私自身の今の状態は悪いことばかりはないと思うのです。こんな自分でも、神様の目には貴い存在であると思えることはとてもとても幸せです。
(小山晶子牧師夫人)

ホセア 1章

「ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。」(11節)

ホセアは紀元前722年の北王国の滅亡の前に、北王国に遣わされた預言者です。彼は遊女と結婚することによって、神の民イスラエルの不誠実さを象徴的に表すという使命をいただきました。ユダの人々とは南王国のことで、ここでは主の日に北王国と南王国が一人の指導者(メシア)を立てて統一されることが預言されています。使徒パウロはローマ書でホセア書を引用し、ユダヤ人と異邦人がキリストを立てて統一されたことがこの預言の成就だと語っています。聖書は言います。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

今日は主の日。共に主を礼拝しましょう。

ヘブル 13章

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(15節)

神が「いけにえ」を規定されました。イスラエルの人々は、「いけにえ」を守りました。しかし、「いけにえ」は形骸化し、心が伴わないものとなりました。ダビデは罪を犯した後、悔い改めて、こんな歌を作りました。

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)

神は私たちの賛美を愛されますが、私たちの心からの賛美を願われます。ですから、賛美が「いけにえ」と呼ばれます。口先ではない、心からの賛美が捧げられることを、神は願っておられます。

へブル 12章

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(2節)

イエス様は、私たちの信仰の創始者であり、完成者だと聖書は言います。私たちの信仰は、イエス様から賜物として与えられているものです。そして、イエス様は私たちから離れることなく、信仰の働きを完成してくださいます。ですから、使徒パウロは言いました。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

主は、あなたを見捨てるためにここまで導かれたわけではありません。主は必ず、主の働きを完成されます。ですから、私たちはただ、イエス様から目を離さないことが大切です。

ヘブル 11章

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(6節)

神に喜ばれる者となるためには、信仰が必要です。私たちは二つのことを真剣に信じる必要があります。第一番目に

「神がおられること」。

神の存在を信じることができなければ、神に喜ばれることはありません。天地万物を創造し、支配される三位一体なる神を、信じる必要があります。私たちを愛し、私たちに関心をもっておられる生ける神の存在を信じる必要があります。第二番目は、

「神を求める者には報いてくださる方であること」

を信じる必要があります。特に、「求める」と訳された言葉は「熱心に求める」という意味があります。私たちの熱心な祈りに答えてくださる神がおられることを信じる必要があります。

へブル 10章

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(25節)

教会と言う時、見えない普遍的教会と見える地域教会が存在します。今日の箇所は、目に見える地域教会の教会員として、一緒に教会に集まることの大切さが語られています。いっしょに集まることによって互いの存在を通して励ましあうことができます。いっしょに集まることによって、キリストの体としての機能を果たすことができるようになります。いっしょに集まることを通して教会は、キリストの体の一部としての適切な発展をすることができます。教会はこの世界の希望です。教会の創始者はキリストであり(マタイ16:18)、私たちが共に集まるそのただ中に、キリストは臨在されます。(マタイ18:20)教会生活を大切にしましょう。

ヘブル 9章

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(27,28節)

聖書は言います。

「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6’23共)

キリストは、私たちの罪のために、「罪が支払う報酬」を払ってくださいました。そして、キリストは死に勝利され、復活されました。そして、再びこの世の終わりに、この地に来られます。この世全体の終わりが来なくても、すべての人には、個人的なこの世の終わりが存在します。人は死亡率が一〇〇%、無視できません。聖書はさらに、その後、神の御座の前に立つことも定まっていると言います。しかし、キリストを救い主として信じているのならば、その日を恐れる必要はありません。

ヘブル 8章

「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(10節)

この箇所はエレミヤ31章の引用です。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(33節)

この新しい契約の実現は、聖霊を授けることでした。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:17)

まさに、これがペンテコステの日に起きた出来事でした。今、イエス・キリストを信じる者の内には聖霊が授けられていて、聖霊が神の御言葉に従って歩むように私たちを導かれています。

はじまりました

先週木曜日からいよいよ会堂の修繕工事が始まりました。あっという間に足場が組まれ、外壁と屋根が高圧洗浄機で綺麗になり、作業は梅雨明けの猛暑の中今日も続けられています。足場の関係で、しばらくは駐車しづらくなると思いますが、どうぞご勘弁ください。実は教会堂を建てるにあたり、予算の関係で表からは見えない外壁の一部に違う種類のものを使用してあります。それが今回、すべて同じ色で塗りなおすので、ようやくどこから見られてもいい状態になることを個人的には非常に喜んでいます。汚れたものの上に新たに塗りなおす、ではなくきれいに汚れを取ってから塗るという作業に信仰生活と共通するものを感じています。高圧洗浄機で壁の汚れを洗い流すように、私たちの心に溜まっていった汚れをイエス様の血潮によって洗い流していただき、日々主の前に新たな気持ちで立つことができればどんなにすがすがしく幸いだろうかと思うのです。教会の外壁がどんどんきれいになるように、教会に集う私たちもまたきよめられていきたいものです。 (小山晶子牧師夫人)