アモス 6章

「あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか。」と言う。」(13節)

LBではこう訳しています。

「無に等しい者なのに、愚かにも、偉い者であるかのように喜びます。ちっぽけな力を、たいそう自慢しています。」

当時の北イスラエル王国の問題は、この箇所にも明確なように傲慢でした。しかし、この問題はイスラエルの国だけではないと思います。私たちも、心に留めるべき内容だと思います。私たちの心の中にも、自分の力を過信し、あたかも自分だけで成し遂げたかのようにうぬぼれやすい体質があるのではないでしょうか。イエス様は言いました。

「わたしのうちに生きるよう心がけなさい。またわたしが、あなたがたのうちに生きられるようにしなさい。枝は幹につながっていなければ、実を結べないでしょう。同じようにあなたがたも、わたしから離れたら、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4LB)

アモス 5章

「まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。』」(4、5節)

ベテルもギルガルもベエル・シェバも、当時の偶像礼拝の中心地でした。イスラエルの人々は、まことの神を求めることよりも、目に見える偶像を参拝していました。偶像の問題は、人間が制作したものであり、制作した側の人間を制作された側の偶像は助けることができるはずがないということです。ところが、人は天地万物の造り主、生けるまことの神を求めることをしませんでした。私たちのすべての必要に本当の意味で唯一答えることができるのは、生ける神イエス・キリストだけです。人にはできないことも、神にはできます。ですから、私たちは、イエス・キリストを指し示していく必要があります。イエス・キリストを求めるならば、望みがあります。

アモス 4章

「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主。」(13節)

聖書の神は、「山を造り、風を創造し、人にその思いのいかなるかを示」(口語訳)すと言います。英訳では「彼の思いを人類に現わす」(NLT)と訳します。「神の思い」はどのように現わされたのでしょうか?「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)つまり、イエス・キリストを通して現わされました。イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれるためだけでなく、神がどういうお方か現わすために来られました。私たち人間は、すぐ、自分なりの神々を作り上げてしまいます。ですから、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」(ヨハネ1:14)る必要がありました。私たちは、イエス・キリストに現わされた神を受け入れることが大事です。

アモス 3章

「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」(8節)

神はまず

「事が起こる前に預言者を通して警告する」(LB)

と言います。ですから、主が語られたならば、預言者は語る責任があります。ヘブル書にはこう記されています。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(1,2節)

神は、今、御子イエス・キリストによって語られたと聖書は言います。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

だれがこの福音を伝えずにいられるでしょうか!

もも

先週夫の反対を押し切り、ちょっと奮発して桃を2つ購入しました。とはいうものの、口腔アレルギーの私には食べることのできないもので(だから反対された)でも、私以外の家族は食べることができますし、特に次男は果物が大好きなので、という理由で強引に購入したのです。が、これがリンゴ並みに硬い!時間をおいてみたものの改善は見られず。硬くてもおいしければいいのですが、ほんの小さなかけらを口に入れてみると甘みもなく、ほんの少し桃の香りがするだけ。仕方ないのでそれを切って保存袋に入れ、とりあえず冷凍庫へ入れてみました。二日後、夕飯にカレーを作ることにしたとき、その桃のことを思い出しました。わたしはお肉を柔らかくするためにバナナを使うのですが、同じ酵素がある桃でも代用できるのではと思い、一緒に煮込んでみたところ大成功でした。お肉が柔らかくなり、とてもおいしいカレーができたのです。視点を変えるって楽しいな、と思いました。神様に視点を変えていただき、新たな発見がある楽しい一週間でありますように。  (小山晶子牧師夫人)

アモス 2章

「わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。―主の御告げ。―それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。」(11、12節)

ナジル人とはある期間特別の仕方で神に仕えることを約束した人です。その期間は、三〇日から全生涯までさまざまでしたが、髪を切らず、酒を飲みませんでした。ここで酒をナジル人に飲ませたという意味は、彼らの神への献身を邪魔したということです。預言者は未来のことを予言する人と言うよりも神のことばを預かり語る人です。「命じて、預言するなと言った」という意味は、神のことばを聞くことを拒否したということです。しかし、神はそんな堕落した時代にも、なおもナジル人を起こし、預言者を起こされました。今日は主の日。主に共に礼拝を捧げましょう。

アモス 1章

「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。」(1節)

アモスは南ユダ王国に住む羊飼いでした。つまり、訓練を受けた預言者でも、地位のある指導者でもなかったのです。しかし、神はアモスを呼び、語り、用いました。聖書にこういう箇所があります。

「神様は、この世では愚かな者、弱い者と思われている人々をあえてお選びになりました。それは、この世で知恵ある者、りっぱな人とされている人々を辱めるためです。神様は、この世で見下されている者、取るに足りない者を選び、そういう人々を役立てることによって、力を持っている人を無きに等しい者とされたのです。ですから、どこのだれであっても、神の前で誇ることはできません。」(Ⅰコリント1:27-29LB)

どんな人でもその心が神と一つとなっている人を神は用います。

1ペテロ 5章

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(7節)

サタンはあなたが一人ぼっちだと信じようとさせます。誰も理解してくれないし、誰も気にもとめていないと信じさせたいのです。しかし、神はあなたのことを理解しています。神はあなたのことを心配しています。あなたを気にかけておられます。どんなに失敗を繰り返しても、どんな問題を抱えていても、神はあなたを見放さず、見捨てません。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(8,9節)

私たちは否定的な思いに立ち向かわなければなりません。神はあなたを愛しておられます。

1ペテロ 4章

「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」(2節)

リック・ウォーレン牧師の「人生を導く5つの目的」は、このように始まります。
「人生は、あなたが中心ではありません。人生の目的は、個人的な達成感、心の安らぎ、個人の幸福よりもはるかに大きなものです。また、家族や仕事、夢や志よりもずっと偉大なものです。自分がなぜ存在しているのかを知りたければ、まず神から始めなければなりません。あなたは神の目的に従って、神の目的のために生まれたのです。」

私たちの人生が混乱するのは、「私」のため、「欲望」のために生きようとするからです。私たちは偶然存在しているのではなく、私たちを造られた神の目的があります。ですから、私たちを造られた神のみこころのために生きる時、私たちの人生は満たされるのです。

1ペテロ 3章

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(9節)

やられたらやりかえす、それが普通の感情だと思います。しかし、聖書の生き方は違います。私たちは祝福を与えるようにと命じられています。なぜなら、私たちは

「祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

私たちの存在が、神の御国をこの地に現わすものとなるためには、祝福を祈る者となる必要があります。聖書は言います。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」(10‐12節)

私たちは、日々、聖霊の力を祈り求める必要があります。