ホセア 14章

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。」(9節)

スポルジョン牧師が、ある信徒の家を訪問しました。すると彼の小屋の上にある風の吹く方向を知る風見に「神は愛なり」と書いてありました。それで、スポルジョン牧師は彼に尋ねました。「あなたは、神の愛が変わることがあると言いたいのですか。」彼はこう答えました。「いいえ。私は風がどんな方向に吹こうとも、それでもなお神は愛であると言いたいんです。」これが、ホセア書のメッセージです。神の民は神を裏切りましたが、ホセアがゴメルをあきらめなかったように、神もご自身の民をあきらめていません。神はひとりも滅びることを望まず、立ち返るのを待っておられるのです。これが、私たちが知るべきことです。

ホセア 13章

「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。」(10節)

偶像というのは、目に見える彫刻だけの話ではありません。まことの神よりも人間に信頼するのならば、それもまた、その人にとって偶像となりえます。LBでは、この箇所をこう訳しています。「この地の指導者はどこにいるのか。おまえは王や指導者を頼みにした。それなら、彼らに救ってもらうがいい。」残念ながらどんなに人間に期待しても、人は、人を救うことはできません。キリストだけが私たちを救うことができるのです。どんなに優れているように見える人でも、人である限り、本当の意味で人を救うことはできません。私たちは人に対して信仰をもつべきではありません。神に信仰をもつべきです。

ホセア 12章

「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(6節)

信仰生活の中でもっとも難しいことの一つが、神を待ち望むことだと思います。私たちは待つことが嫌いです。何とかして物事を自分の思い通りに動かしたいと思います。しかし、神は「待ちなさい」とおっしゃられることがあります。ですから、私たちは継続的にこの御言葉を自分の心に言い聞かせる必要があります。

「絶えずあなたの神を待ち望め」。

LBでは後半部分をこう記しています。

「いつも、あなたの神に期待しなさい。」

私たちは落胆を避けるために、いつのまにか期待をしないようになります。人間が期待に添えないことは多々あります。しかし、神は期待することができるお方です。いや、期待以上に応えて下さるお方です。

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。

ホセア 11章

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(8節)

神はイスラエルが裁かれる理由を明確にしましたが、神の心はあわれみで熱くなっていると言います。神は裁きたいのではなく、赦したいと言います。LBではこう訳しています。

「わたしの心は叫んでいる。なんとしても、あなたを助けたい。」

聖書は言います。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

今日は長崎に原爆が投下された日。私たちはイエスに従い平和をつくりだすように召されていることを覚えたいと思います。

ホセア 10章

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」(12節)

義の種を蒔くならば、真実の実を刈り取ると聖書は言います。イスラエルの問題は神以外のものを神として拝んでいたことでした。ですから、天地万物を造られた創造主なる神を神と認めることから始めなさいと言うのです。そうするならば、神の真実を体験すると言われます。そして、「今がその時だ」と言います。主を求めるのに早すぎることも、遅すぎることもありません。使徒パウロもこのように言っています。

「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

主は確かに来られます。

ホセア 9章

「エフライムの見張り人は、私の神とともにある。しかし、預言者は、すべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。」(8節)

エフライムとは北イスラエル王国のことであり、見張り人とは預言者のことです。ですから口語訳は、「預言者はわが神の民エフライムの見張人である。」と訳しています。神は北イスラエル王国を守ろうと預言者を遣わし、神のことばを語らせました。しかし、イスラエルの人々は神のことばに耳を傾けないどころか、神のことばを語る預言者たちを妨害しました。当時の宗教指導者たちも同じでした。問題は、はっきりしています。

「私の神は、イスラエルの民が聞くことも従うこともしないので、彼らを滅ぼします。」(17節LB)

神のことばに聞くことも従うこともしないならば、どうすることもできません。神は今、聖書のみことばを通して私たちに語られています。神のみことばに耳を傾け、従うことができますように。

めんどうくさい

若い世代と話していて最近特によく耳にする言葉に「めんど!」という言葉があります。めんど!は「面倒くさい」という言葉の略語だと思われます。ただ、「面倒」はもともとほめるという意味のある「めでる」という言葉から派生したという説もあるらしく、日本語は奥が深いなあと改めて感じています。さて、どうしてこんなことを書いているかというと今朝のデボーションの箇所であったカナの婚礼のところを今日一日黙想していたからです。ぶどう酒がなくなり、水がめに水をいっぱいにしなさいと言われた水くみの人たちは恐らく「面倒くさい」ことをしたのだと思います。面倒とは「手間がかかったり解決が容易でなく煩わしいこと」。現代は待つことが難しい、我慢ができない時代だと感じています。すぐに結果が欲しい、答えが欲しい。でもイエス様の御業は「面倒くささの中」に現わされることがあることに心を留めることは大切なことだと感じたのです。面倒くさいことから逃げていたらせっかくの祝福を見逃してしまうかもしれません。
(小山晶子牧師夫人)

ホセア 8章

「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。」(14節)

LBでは前半部分をこう訳しています。

「イスラエルは大きな宮殿を多く建て、ユダは町々の防備を固めた。しかし、自分たちを造った方を忘れてしまった。」

私たちが何を作ろうとも、私たちを創造された造り主なる神を忘れて何かをすることほど、空しいことはありません。バベルの塔は人類の英知の結集でした。神は言われました。

「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」(創世記11:6)

創造主である神を忘れ、人間が作ったものの一つは原子爆弾です。

今日は、主の日であると同時に広島に原爆が投下された日です。世界の平和のために祈りつつ、造り主を覚えて、共に主に礼拝を捧げましょう。

ホセア 7章

「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」(10節)

厳しい言葉ですが、私たちは心に留める必要がある言葉だと思います。私たちはいつも、へりくだって、神に立ち返る必要があります。私たちの人生に起こる問題は、神を求める機会となります。ですから、問題の中で祈りに導かれないなら、その問題も意味のないものとなってしまいます。メッセージ訳では、

「すべてのしるしにも関わらず、神を無視している」

とあります。いかがでしょうか。神を無視していないでしょうか。こういう賛美があります。

「私はあなたが必要です。主よ。あなたが必要です。自分の力だけで、この人生をやりきることはできません。」

へりくだり、心から、「主よ、あなたが必要です」と求めることができますように。

ホセア 6章

「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(3節)

「知る」というのは、単に知的に知るという意味ではありません。体験すると言う意味があります。神を体験することを切に追い求めるように聖書は語っているのです。神を体験するためには、聖書の神のみことばに生きる必要があります。祈り、聖霊の導きに従う必要があります。それは時には信仰の冒険が求められます。LBではこう訳しています。

「ああ、主を知りたい。さらに主を求めよう。そうすれば、必ず夜明けが訪れ、早春の雨期が来るように、必ず答えてくださる。」

私たちが神を体験することをせつに追い求めていく中で、神は必ず報いてくださいます。