黙示録 10章

「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。」(4節)

聖書には、明らかにされた真理と隠された真理があります。申命記29:29にも、こう記されています。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」(口語訳)

まず、私たちは明らかにされた真理、たとえば、「イエス・キリストを自分の救い主として信じる人は誰でも救われる」ということは、私たちに属することとして握り締める必要があります。しかし、同時にグレー・ゾーンと呼ばれる隠された部分があることも認めて、神に属するものとして受け止めることも大事です。私たちは知らないことがあるゆえに謙遜になれます。

今日は宗教改革記念日。500年前の今日、ルターはヴィッテンベルクの城教会の門の扉に95カ条の提題を貼り出されたと伝えられています。

(宗教改革記念礼拝のメッセージはこちら

黙示録 9章

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」(20,21節)

黙示録の九章は、第五、第六のラッパの裁きについて語られています。地獄が開かれ、悪魔的な力が人間を襲います。そして、最終的に人類の三分の一が殺されるとあります。残りの三分の二は、これらのことを見て、神にあわれみを求めて、罪を悔い改めて立ち返るだろうと私たちは考えます。しかし、そうではないと言います。彼らは神をののしり、偶像礼拝をやめないと言います。これは、単なる未来の話ではありません。現代にも、同じ問題があります。モレクという名前の神々を拝んでいなくても、もし快楽を目的に生きているなら、同じことです。悔い改めとは考え方を変えることです。神中心の生き方に変えることです。

突然のできごと

その知らせはあまりにも突然でした。
私の母校東京基督教大学の学長であり、小山牧師が博士論文でお世話になっている小林高徳(たかのり)先生が出張先のアメリカで天に召された、というのです。心筋梗塞で救急搬送され、ご家族が急遽アメリカへと向かわれたのですが到着前に息を引き取ったのことでした。61歳。あまりにも急な地上での別れに私たちはいまだそのショックの中から立ち上がれずにいます。優しくて、知的でいつも笑顔で私たちを迎えてくださった本当はすごい先生。すごい先生なのに偉ぶったところがまったくなく、気さくで温かい励まし手でもありました。そんな小林先生がこの春卒業する学生に向けて語った言葉を紹介します。

「今の時代は恐らく、『大学を終えたら、自信をもって自分の信じた道を行きなさい。』と語られるのだと思います。しかしむしろ、自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従うという道を謙遜に歩んでいただけたらと思っています。どんな働きであろうともです。」

(小山晶子牧師婦人)

黙示録 8章

「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。」(3節)

祈りは神からの素晴らしい贈り物です。創造主が私たちの言葉に耳を傾けてくださるという現実は想像を超えています。祈りはまた特権です。神は私たちの祈りを貴ばれます。それは、麗しい香りだと言います。祈りは礼拝です。それは、神の足許に座ることであり、神を愛することです。祈りのもっとも一般的な形式は願いだと思います。私たちは祈りを通して神に助けを求めます。祈りはまた、とりなすことでもあります。自分の必要を超えて、他者の必要のためにとりなすことは大切なことです。祈りは対話でもあります。私たちは神に語りかけることだけでなく、静まって神に聞くことも重要です。今日は主の日。宗教改革記念礼拝です。主に共に礼拝を捧げましょう。

黙示録 7章

「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(17節)

「小羊」は、イエス様を指しています。LBではこう訳しています。

「それは、王座の正面に立たれる小羊が、羊飼いとして彼らを養い、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また神は、彼らの目からあふれる涙を、すっかり、ぬぐい取ってくださるのです。」

生ける神、イエス・キリストは、私たちの羊飼いとなって私たちを養い、導き、慰めてくださるお方です。ジョン・ウェスレー師はこう言っています。

「私の生涯の中で最も素晴らしいことは、神がご一緒してくださったことだ。」(The best of all is God is with us.)

人間は真の牧者にはなりえません。人間はいつも一緒にいることはできないし、限界があるからです。しかし、イエス・キリストが牧者ならば限界はありません。

黙示録 6章

「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」(2節)

白い馬というのは、私たちの中でいいイメージがあると思います。実際19章では、イエス・キリストが白い馬に乗って来られます。しかしこの箇所では、この後戦争や飢饉が訪れるということが記されています。ですからこの白い馬に乗っている者は、偽者のキリスト、反キリストのことを指していると考えられます。反キリストと聞くと、キリストに反する存在と考えますが、正確には、キリストのように見せかけ、人々をキリストから離していく存在です。この人物は「弓」を持っていたとあります。エペソ6:16を見ますと、不信仰の火矢を悪魔が放つことが分かります。反キリストは、イエス・キリストに対する信頼を揺るがせようと不信仰の矢を放ちます。もっともいつの時代にも不信仰の矢は飛んでくるので、信仰の大盾が必要です。

黙示録 5章

「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」(8節)

四つの生き物と二四人の長老が何を意味するか、聖書学者の間でも意見が分かれています。しかし、ここで興味深いのは、香が聖徒たちの祈りであるということです。聖書は、キリストを信じる者はすべて聖徒だと呼んでいます。つまり、すべてのクリスチャンの祈りが香として天に立ち上り、天に蓄えられているというのです。この後八章で、この香が地にまかれて結果的にいろいろなことが起こります。つまり、こう適用できると思います。家族のため、友のため、私たちが祈り続けるならば、その祈りは香のように天に立ち上り、蓄えられ、神の時に、神がその香を振りまかれて、神の御業を見ることができると。ですから、私たちは祈り続けることが大事です。

黙示録 4章

「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」」(1節)

使徒ヨハネは、天の御座、天の現実を見ました。ここで使われている

「見よ」

ということばは、

「ああ、分かった。」

という意味があります。

「私はラッパの声の招きに応じました。先ほどまでは自分の力ではどうしようもない問題に悩んでいた私は、突然、天の門の中に入れられたのです!すると、分かりました!全能の主を賛美します。神のゆるがない御座、堅固な神の御国がそこにあったのです。」

使徒ヨハネが体験した天の現実、それは、まさに生ける神のおられる部屋、神のリビング・ルームです。神がもっとも居心地のよい場所、それは賛美と礼拝に満ちている場所です。神の現実をもっと体験したいのならば、賛美に満ち溢れた場所にいることです。

黙示録 3章

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(20節)

キリストが戸の外に立ってノックしているとはどんな感じでしょうか。すぐ前の節にこうあります。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(19節)

文脈から考えると、試練は私たちに対するイエス様のノックと考えられます。イエス様は私たちの心の中に入って、一緒に食事をしたいと願っています。それは、人格的、個人的な関係をもちたいと願っているという意味です。しかし、イエス様は土足で私たちの心の中に入ってこられる方ではありません。ですから、ノックしているというのです。そのノックが試練であるならば、試練の時は特に、早く心のドアをキリストに開ける方がいいと思いませんか?

黙示録 2章

「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。―しかしあなたは実際は富んでいる。」(8,9節)

イエス様は苦難の中にいた人々たちに対してご自身を、

「死んで、また生きた方」

と言われました。「死んだ」という意味は、「十字架の死」を意味しています。十字架は私たちの現在の状況に直接語りかける象徴です。十字架の上でイエス様が、「我が神、どうして私をお見捨てになるのですか」と叫ばれた場面は、私たちが日常の中で、「神はどこにおられるのだろうか?」と問いかけるのに重なります。ある神学者はこう言います。

「十字架の下にある人生は、受難の金曜日を、復活の日曜日の光の下で生き、神は苦しみの日にも私たちを放っておかず存在し、不思議で隠されたやり方で存在し、働いているのだと知っていることなのです。」

「死んで、また生きた方」は、見放すことはありません。