エレミヤ 29章

「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(13節)

主を捜し求めるとは何を意味するのでしょうか。それは障害物を取り除き、主に焦点を合わせ、主に集中し、主から聴くための位置に自分自身を置くことです。私たちは主を捜し求めていると言いながら、他の場所に時間を費やし、探しているということがよくあるのではないでしょうか。私たちは神のみ言葉に浸るよりも、どんなことに時間を費やしているでしょうか。大衆文化、自己啓発、ソーシャル・メディア、テレビのトーク・ショー・・・。もし、本当に神を見いだしたいのなら、神を知りたいのなら、神から聴きたいなら、私たちは、私たちの心をその中に置かなければなりません。あなたの心は何を欲しているでしょうか。

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

究極的な祈りの目標は神に栄光を帰することです。祈りの目的は、神をあなたが見ていることに合わせることではありません。祈りの目的は、私たちを神の御国、力、神の栄光に合わせることです。神の御国を求めることを、神の御力に頼ることを、神の栄光のために生きることを学ぶときに、神の祝福はあなたの人生に注がれ始めます。

「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
あなたの恵みとまことのゆえに」(新改訳2017)

コロサイ 3章

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。・・・あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(23,24節)

誘惑というのは悪いことをしないということだけではありません。正しいことをしないということもあります。犯す罪と怠慢の罪があります。悲劇と同じくらい快適さには危険があります。神はあなたの快適さのためにこの地に置かれたわけではありません。神は神の目的に仕えるためにあなたを置かれました。あなたはどのように神に仕えているでしょうか?私たちは他者に仕えることによって神に仕えます。たとえそれが不都合に思えたとしても。神様は直接主キリストに対してするように、何事においても真心からすることを願っておられます。

1コリント 13章

「人のした悪を思わず」(5節)

新改訳2017では、こう訳しています。

「(愛は)人がした悪を心に留めず」

思いの中で過去の傷を思い返すたびに、私たちはさらに傷を受けます。傷を手放し、傷つけた人を赦すことが平安への道となります。あなたの思いの中に過去の傷がうずくたびに、その思いを神のもとに持っていき、神の恵みを求め、十字架のもとにその傷を置きましょう。

イエス・キリストは傷ついたその御手を伸ばし、私たちを包んでくださいます。

エペソ 4章

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(32節)

あなたを傷つけた人を赦すことは不公平に感じます。しかし、赦しは公平性とは関係ありません。赦しは恵みの世界です。神があなたを赦したのは公平ではありませんでした。しかし、神はあなたを赦されました。あなたを赦された神は言われます。

「わたしはあなたがあなたを傷つけた人たちを赦して欲しい。わたしはあなたがそうするための恵みを与える。」

「神がキリストにあってあなたがたを赦しくださったように、互いに赦し合いなさい。」(LB)

詩篇 32篇

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(1-5節)

神はあなたが罪の意識に苛まれて生きることを願っていません。解放されて欲しいと願っています。解放される方法は告白です。神に罪を告白することは、神が知らないことを知らせることとは違います。神は、私たちが悔い改めて告白することを待っています。私たちが告白する時、神は赦すことを約束しています。

今日は主の日。アドベント二週目です。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ヨハネ 1章

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(9節)

もし、あなたがただ求めるならば、神はいつもあなたを赦してくださると信頼することができるお方です。飛び越えなければならないハードルも、支払わなければいけない罰金もありません。天秤もありません。交渉する必要もありません。「しばらく待って、あなたが本当に赦しに値するかどうか見てみよう」と神が言われることもありません。ただ、謙遜に、正直に言い表すだけです。しかし、そうする価値があります。あなたはその瞬間、自由にされ、完全に、永遠に赦され、義と認められます。

マタイ 6章

「『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」(9‐13節)

主の祈りのそれぞれの句は信頼関係を表します。

「天にいます私たちの父よ。」

‐あなたは私の父、私はあなたの子、あなたの愛を信頼します。

「御国が来ますように。」

‐あなたは私の王、私はあなたの従者。あなたの権威を信頼します。

「みこころが行なわれますように」

‐あなたは私の主人。私はあなたの僕。私はあなたの知恵を信頼します。

マタイ 6章

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(34節)

イエス様は私たちに、

「毎週の糧、…毎月の糧、…生きている間十分な糧を、今日もお与えください」

と祈るようには教えられませんでした。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(6:11)

と祈るように教えられました。なぜなら、神はあなたが日々、神に頼って欲しいからです。もし、神があなたの必要を一度にまとめて満たしてしまうならば、あなたは神を信頼しなくなってしまうでしょう。神に祈ることすらしなくなるでしょう。だからイエス様は、今日必要なものだけを求めるように言いました。そして、明日のことを心配しないように言いました。

マルコ 14章

「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」」(36節)

神はあなたの悲しみを慰めたいと願っておられます。あなたがもうこれ以上進めないと感じる時、あなたを支え、強めたいと願っておられます。あなたが痛み、悲しみ、恐れる時、イエス様がゲッセマネの園で祈ったように祈りましょう。

「あなたのみこころのままを、なさってください。」

イエス様は言われました。

「苦しみたくありませんが、あなたが私にとっての最善が何であるかを知っていると信じています。」

苦しみと悲しみの中で、イエス様は神に痛みと苦しみをささげ、神のみこころに委ねました。神は苦難も含めてあなたが人生のすべてを神に信頼することを願われています。