マルコ10:13-31

「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(10:25)

富んでいる人は神に祝福されている人だと、当時の人は判断しました。そして、貧しい人は、何か問題がある人と裁いていました。つまり、今日の箇所のイエス様の発言は、目の前の状況を、私たちが自分勝手な憶測で判断して、祝福されているとか、祝福されていないとか、言ってはいけないということが込められています。あくまでも、祝福は神の領域ということです。それでイエス様は続けて言います。

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(27節)

私たちは、その人の一時的な状況で判断して、祝福されているとか、祝福されていないとか、言うべきではありません。今、富んでいるから祝福されているとは限りません。今、貧しいからといって祝福されてないとは限りません。

マルコ 9:33-10:12

「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」(9:40,41)

ブルックリン・タバナクル教会のジム・シンバラ牧師はこう言います。

「その教会の牧師が聖書から正しい教理を説き明かしているかどうか、あるいはその牧師が常に祈っているかどうかということよりむしろ、教会が内部分裂、争い、中傷、闘争心などを克服しているかどうかの方が重大な問題です。…たとい、牧師が祈りと説教を通して御霊をお招きしようと懸命に努力したとしても、教会内に中傷、陰口、もめ事があるとしたら、御霊は来てはくださいません。」

残念ながら、教会の歴史はこの繰り返しでした。そのような葛藤の中に生きていた中世の神学者アウグスティヌスはこう言いました。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」

マルコ 9:2-32

「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」(9:8)

ペテロがイエス様のため、モーセのため、エリヤのために幕屋を造りたいと申し出た時、神様はこう言われました。

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(7節)

そして、イエス様以外、だれも見えなくなりました。これは、あたかも、私たちが「幕屋」を造るのではなく、イエス・キリストが「幕屋」なのだと言っているように思われます。聖書のメッセージは、イエス・キリストこそ、天と地が重なる、この幕屋であるということです。ヨハネの福音書に、こういう箇所があります。

「ことばは肉なる人となって、私たちの間に幕屋を張った。」(ヨハネ1:14岩波訳)

つまり、イエス・キリストの存在そのものが、天と地が重なり合う幕屋なのです。幕屋を造るのではなく、イエス様との時間を過ごすことが大切です。

マルコ8:14-9:1

「するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」」(8:29)

周囲の人が何と言っているかよりも、私たち自身がイエス・キリストを誰だと考えているかが重要です。ある十代の少年が小さな教会に入ると、牧師がこう言いました。

「青年よ、君は悩んでいます。君はキリストを見上げない限り、その苦悩から逃れることは決してできません。仰ぎ望め、仰ぎ望め、ただ仰ぎ望むのです。」

その時、この少年はあたかも電気に打たれたかのように感動しました。イエス・キリストを仰ぎ望むことにすべての答えがあることが分かったからです。彼はやがてイギリスを代表する牧師になりました。彼の名はチャールズ・ハドン・スポルジョン。説教者のプリンスと呼ばれます。

今日は主の日。共に、主を仰ぎ見、主に礼拝を捧げましょう!

マルコ7:31-8:13

「そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。」(7:34)

「エパタ」はアラム語です。ちょうど、現代の教会でも、「アーメン」、「ハレルヤ」、「ホザナ」と言った、ヘブル語がそのまま使用されているように、初代教会では、一般的に、「エパタ」という言葉が使用されていたのだと思われます。「エパタ」、「開け!」と、宣言して祈っていたのだと思います。この「開け!」という単語、原文は、命令形ですが受動態になっています。つまり、正確には、「開かれなさい!」です。神的受動態(divine passive)と呼ばれますが、主語は、「神」です。つまり、「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって、初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。私たちも主に期待して、信仰の宣言をしていこうではないでしょうか。

マルコ 7:1-30

「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(7:19)

新共同訳聖書は、聖書の続編を聖書の中に入れました。しかし、聖書の続編は正典として認められていません。それは、イエス様の教えに反しているからです。
続編のマカバイ記にこう記されています。

「だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄なものを口にしなかった。彼らは、食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んでいった。」(1:62,63)

当時のユダヤ人たちは、食物によって、その身は汚されると考えていました。ユダヤ人の英雄は、穢れるという理由で食べることを拒否し殉教しました。人々が英雄視していた人たちが間違った理由のゆえに殉教していたことを指摘する時には細心の注意が必要です。それでイエス様は弟子たちにだけにひっそり説明しました。続編で大事なこととして記述されていた食物規定をイエス様は覆しました。続編は神のことばではありません。

マルコ6:30-56

「そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。」(31節)

最近、日本のキリスト教界で頻繁にQTという言葉を聞くようになりました。QTの意味をリビングライフはこのように解説しています。

「Quiet Timeの略字で、毎日、静かな時間と場所を定めて、神と個人的に出会い、聖書のみことばを通して、自分への神の御声を聴き、黙想し、生活に適用することにより、生き方への変化と成熟をなそうとする敬虔訓練です。」

具体的には、定期的に、聖書を読み、黙想し、祈ることです。私たちは、静まって、このような生ける神との親密な時間をとる必要があります。もちろん、聖書を読んでる中で、いつも、生活に適用できる内容を読み取ることができるとは限りません。しかし、神と個人的に出会う時間を確保することは大切なことです。

マルコ6:6-29

「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」(6:12,13)

弟子たちは「悔い改めを説き広め」ました。「悔い改め」とは、自分の過ちを悪かったと悔いるだけの話ではありません。その人の態度、考え方を変えることを意味します。つまり自分の価値観を、神の国の価値観に変えることを弟子たちは説き広めました。神がもたらされる新しい働き、神の国の現れには、自然の法則を超えた、超自然の世界があります。私たちはイエス・キリストのみ名によって、悪霊を追い出し、病人を癒すことができます。「大ぜいの病人に油を塗って」とありますように、神は私たちができるだけ多くの病人のためにいやしを祈ることを願っています。もちろん、病人をいやすのは神の役割です。私たちの役割は、祈ることです。

マルコ5:21-6:6

「イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」」(6:4)

イエス様の兄弟たちは、皆、イエス様を信じていませんでした。しかし、後に、彼らは皆、初代教会において中心的な役割を担う者となっていきます。私たちは、神がこの時代のこの世界で何を行われているかという大きな視野と、個人個人に働かれている小さな視野の両方が必要だと思います。イエス様の兄弟のヤコブも、最初は福音に反対していましたが、神の恵みによって、信仰と祈りの人となりました。彼こそ、後に、エルサレム教会の牧師となり、新約聖書のヤコブの手紙を書いた人です。神様は、世界全体にも働かれていますし、私たち一人一人の人生にも働かれているお方です。私たちは、目に見える現実に縛られずに、信仰の目を上げていく必要があります。

マルコ4:30-5:20

「イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」」(4:40)

イエス様は、イエス様がそこにおられるのにも関わらず、恐れる弟子たちに言いました。

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

イエス様は、

「これだけ、神の御国の現れを体験していて、まだ、信じられないのですか?信頼できないのですか?」

と弟子たちに問うたのです。イエス様が乗っていても、嵐が起こりました。残念ながら、キリストと共にある人生に、波風が立たないとは、聖書は約束しません。しかし、イエス様がされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して、枕をすることができます。なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。イエス様が弟子たちの問いかけに応じられたという意味は、私たちのことを思われているということ以外の何ものでもありません。