ルカ3:23-4:13

「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり」(4:1)

これはとても不可思議な箇所です。

「さあ、今、私についてきなさい。」

「どこに行くんですか?」

「荒野に行きます。」

「荒野で何があるんですか?」

「あなたは、悪魔に誘惑されるんですよ。」

「あなたは、わたしを愛してるといったじゃないですか。」

「そうですよ。」

「わたしを喜ぶといったじゃないですか。」

「そうですよ。」

「それでは、わたしはどこに行くんですか?」

「悪魔に誘惑されるために、荒野に行くんですよ。」

「わたしが、何か悪いことしましたか?」

「いいえ、わたしはあなたを喜んでいますよ。」

「で、どこに連れて行ってくださるのですか?」

「荒野ですよ。」

「???」

神はあえて愛する者が試みに会うことを許されます。それは、神は私たちの歩みを気にかけておられるがゆえに、

「荒野で恵みを見出す。」(エレミヤ31:2新改訳二〇一七)

という世界を体験させたいからです。

ルカ3:1-22

「そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(3:4)

私たちにとって一番大切なことは、主の道を用意することだと聖書は言います。私の道ではなく、誰かの道でもなく、「主の道」です。この箇所はイザヤ書の引用だと書いてありますが、イザヤ書40:3にこう書いてあります。

「主が通られる道を準備せよ。荒野に、平らでまっすぐな道を、主のために準備せよ。」(LB)

「主の道」は、明らかに神がお通りになる道のことです。神がお通りにまる道は、バプテスマのヨハネの姿を見るならば、イエス・キリストを指し示すことであることが分かります。ヨハネは言いました。

「私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」(16節)

イエス・キリストを指し示す姿勢が主の道を用意します。

ルカ2:41-52

「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。」(2:41)

イエス様と両親は、毎年、過ぎ越しの祭りをエルサレムで守りました。過ぎ越しの祭りは、旧約聖書の出エジプトの物語を語ることが中心です。エルサレムでは毎年、過ぎ越しの祭りのために多くの小羊が屠られました。毎年、イエス様はどのような思いでエルサレムに行かれたのでしょうか?というのも、イエス様は、まさに、私たちの過ぎ越しの小羊として、エルサレムで十字架で死なれたからです。幼いイエス様がそのことを知っていたとしたら、どんな思いだったのでしょうか?一つはっきり言えることは、私たちが過ぎ越しの祭りを理解するならば、イエス様の十字架の意味をさらに理解することができるということです。過ぎ越しの祭りの時に、イエス様は十字架にかかられました。すべては、イエス・キリストを信じる者が救われるため、裁きを過ぎ越すためでした。

ルカ2:21-40

「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。」(2:21)

「イエス」という名の説明は、マタイの福音書に出てきます。

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21新改訳2017)

「主は救う」という意味で、ヨシュアやホセアという名も異型名で、天使がつけた名ですが、一般的な名でした。誰もが主の救いを待ち望んでいました。しかし、ユダヤ人が描いていた救いは、異教徒のローマ帝国からの救いでした。人々は、ローマ帝国の支配を終わらせることができる軍事的救い主を待ち望んでいました。しかし、イエス様がもたらした救いとは、罪の力、暗闇の力、死の力からの救いでした。イエス・キリストは、十字架の御業によって罪の支配を終わらせ、神の国をもたらしました。今日は主の日。救い主イエス・キリストの御名をあがめ、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ2:1-20

「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)

今日の箇所は有名なクリスマスの場面です。イエス・キリストが家畜小屋で生まれたことは有名な話です。その理由は、

「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」

です。

「神のための場所がない」

ということほど悲しいことはありません。

私たちはいろいろなことに忙しすぎて、神のための場所がないなどということはないでしょうか?

神が働かれる余地がない状況を作っていないでしょうか?

神が働かれる余白をつくることは、決して無駄なことではありません。神が働かれる隙間があることは重要なことです。私たちの欠けは、神の働かれる場所となります。神の力は私たちの弱さの内に完全に現れます。マイナスは必ずプラスになります。

ルカ1:57-80

「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」(80節)

バプテスマのヨハネは、首都エルサレムではなく、荒野にいました。当時の宗教界のエリート教育を受けたわけではなく、孤独な荒野にいました。死海文書の発見によって、エッセネ派との関係を主張する学者もいますが、証拠はありません。はっきりいえることは孤独の中にいたということです。ヨハネの両親は高齢だったので、早い時期に召されていたと言われます。神は孤独の時を用いられるお方です。ヨハネだけでなく、ダビデもイエス様もパウロも、準備のために孤独の時がありました。私たちも日常の喧騒から離れて、沈黙と孤独の中で神の声を聞き、聖霊に触れていただく時が必要です。砂漠や田舎に行かなくてはならないというわけではありません。テレビを消しラジオを消し、携帯電話の電源を切って、静まって、神のみことばに向き合う時をもてば良いのです。

ルカ1:39-56

「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(1:48)

マリヤの言う

「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思う」

という普遍的な「しあわせ」は存在するのでしょうか。マリヤは、天地万物を造られた創造主なる神が自分に目を留められたことがしあわせだと言います。

「私は偶然、今、ここにいるわけではない。目的をもって私を造られたお方がいて、そのお方が私のことを気にかけてくださっている。こんな小さな自分の存在価値を認めて、『わたしの目にはあなたは高価で貴い』と言ってくださる。」

この認識をもてた人がどの時代でも本物のしあわせ者だと言います。ですから、イエス・キリストを信じる者こそ本物のしあわせ者です。神は私たちを愛するがゆえに御子イエス・キリストを与えてくださいました。イエス様は私たちの罪のために十字架にかかり死に、葬られ、よみがえられました。

ルカ1:26-38

「神にとって不可能なことは一つもありません。」(1:37)

クリスマス・ストーリーとして有名な箇所です。天使ガブリエルがマリヤのところに現れ、神の御子、イエス・キリストを宿すことを告げます。マリヤは戸惑い、

「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」

と言います。すると、天使ガブリエルは言います。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(35節)

そして、

「神にとって不可能な事柄は一つもない」

という天使ガブリエルの言葉に、マリヤは言います。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

どんなに可能性が見えなくても、理解できなくても、

「神にとって不可能な事柄は一つもない」

という天使ガブリエルの言葉を私たちも思い出す必要があります。そしてマリヤのように

「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(Let it be)

と祈る必要があります。

ルカ1:1-25

「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(1:1-4)

著者ルカは、歴史学者のように、資料を集め、注意深く研究してこの福音書を書き上げました。古代の文献は王の功績を大袈裟に称えているものがほとんどですが、聖書は否定的に見えるものさえも忠実に記しています。この書が読まれていた時に、まだキリストの目撃者たちも生存していたはずです。生存者たちにも確信されている出来事であることを私たちは認める必要があります。

マルコ16:1-20

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(16:20)

福音宣教で重要なことは、主が共に働いてくださるということです。聖書のみことばを確かなものとされるのは主であり、私たちは聖書のみことばを語り、聖書のみことばに生きることが求められています。具体的には15節以下でこう命じられています。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

これらの奇跡を起こし、みことばの確かさを証明するのは生ける神です。