ヨハネ 19:28-20:9

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(19:30)

「完了した。」

という単語は、

「完済した」

という意味です。請求書に書く

「支払済み」

という単語です。請求書は、すでに処理されました。支払いは終わりました。イエスの十字架の御業は完璧でした。「完了した」というのはまた、

「完成を告げられた」

という意味もあります。創世記の2章で、神が天地万物を創造された後、このように記されています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」(創世記2:2)

イエス・キリストの十字架の死は、神がなさっていた新しい創造のわざの完成でもありました。ですから、使徒パウロもこのように言います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(新しい創造)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ヨハネ 19:1-27

「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。」(19:6)

「十字架につけろ」と激しく叫んだのは、神殿関係者であったというのはなんという皮肉でしょうか。本来、神の家であるはずの神殿に、神の御子を歓迎すべき神殿関係者が、拒絶したというのです。否、神殿関係者が率先して神の御子を十字架につけたのです。無知のゆえでしょうか?保身のためでしょうか?いずれにせよ、少なくとも彼らは「十字架につけろ」と叫ぶことによって正しいことを行っているという自覚をもっていました。「自分が絶対に正しい」という姿勢は人を盲目にします。伝道者の書にこう記されています。

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(7:16)

唯一絶対に正しいのは、神だけであることを認め、正しすぎないように気をつける必要があります。

ヨハネ 18:25-40

「わたしの国はこの世のものではありません。」(18:36)

イエス様は神の国はこの世から来るものではないと言われました。ここで言う「この世」とは、神に反対する悪の力のことです。イエス様は、神の国にはそのようなこの世の起源、この世の性質はないと言われたのです。イエス様は弟子たちに、「御国を来たらせたまえ」と、この地に神の国が来るように祈るように教えられました。なぜなら、神の国はこの世からは来ないからです。ですから、私たちは膝を屈め、主に祈り求める必要があります。神の臨在がこの世に入ってくるように、賛美を捧げ、礼拝を捧げる必要があります。私たちはこの地に神の御国をもたらすためにこの世に存在しています。

ヨハネ 18:1-24

「イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。」(18:20)

大祭司が、神の御子イエス・キリストに尋問するというこの恐ろしいパロディに人間の悲しさを感じます。大祭司こそ神に仕える者のはずなのに、神に仕えさせようとするこの愚行…。これこそ人間の罪の極みであり、それを実践しているのが人をとりなすべき大祭司であると言う悲劇に言葉を失います。問題は、はっきりしています。聞く耳が閉ざされていることです。イエス様は公然と話しました。同じように、今も、神様は聖書を通して、教会を通して公然と語られています。

読谷村での思い出

今回で5度目の沖縄訪問となりましたが、どんなにスケジュールがタイトでも必ず訪問しているのは沖縄中部読谷村にあるやちむんの里です。すでにセミが鳴き、強い日差しの中北窯という工房にお邪魔し、1800度にもなるという焼き物の窯を見学させていただきました。最初にリラメンバーで訪問した時には赤ちゃんだった大将の息子さんが後継ぎとして立派に成長している姿に驚き、時間の経過を感じるとともに「続けること」の大切さを改めて教えられました。ろくろを回しているスタッフの方にいろいろと質問をしてみました。「作っている最中に指紋がついてしまうことはありませんか?」と尋ねると、「目には見えないかもしれないけどついていると思います。」とのこと。主は陶器師で私たちはその手にある粘土だと聖書は語っていますが、陶器師がどれほど神経を使い、作品を作っているかを見る時に神様の思いを感じることができるのです。23年前にここで賛美した『空』を思い出しながら、23歳になった息子さんのつくったカップを購入しました。(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 17:6-26

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(15節)

イエス様の私たちに対する祈りは、世捨て人になることではなく、悪から守られることです。暗闇の力、肉の行いから守られることです。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:19-21)

私たちは神の国をこの地に現すために存在しています。ですから、肉の行いに支配されないように気をつける必要があります。
今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 16:5-17:5

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(16:24)

「わたしの名によって」は、「わたしの御名の中で」と訳せます。イエス様の名前を使ってというよりも、イエス様の臨在の中でという意味だと考えられます。つまり、金額の書いていない小切手や、魔法のランプのイメージではありません。イエス様との日々の親しい関係の中で、愛する者の救いのため、いやしのため、教会のため、リバイバルを求めて祈り求めなさいという意味です。もし、信仰生活に喜びを感じないとしたならば、祈りの生活を見直す必要があります。イエス様との親しい関係の中で祈り求めているでしょうか?

ヨハネ 15:1-16:4

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(15:17)

12節、17節とイエス様は繰り返し互いに愛し合うことが、イエス様の戒めだと言われました。問題は、他者を傷つけることが「自分は神に奉仕しているのだと思う」(16:2)人がいるからです。当時のユダヤ人たちは自分たちこそ正義を行っていると勘違いしてイエス様と弟子たちを迫害していました。半世紀ほど前に日本に来た学者は、日本のキリスト教会が成長しない理由は話し合って議論ばかり、批判ばかりしているからだと言いました。日本のキリスト教会に必要なのは愛し合うことと言われた感じがします。残念ながら半世紀たった今も、批判することで「自分は神に奉仕しているのだと思う」人々がいます。イエス様の戒めは互いに愛し合うことであることを忘れることがありませんように。

ヨハネ 14:1-31

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(16節)

イエス様は、イエス様と同じ神である聖霊をイエス・キリストを信じる者に与えられると約束されました。

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(20節)

とイエス様が言われたように、聖霊なる神様は、三位一体なる神の臨在の中で生きていることが分かるようにしてくださる生ける神です。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)

とあるように、今も私たちに教えてくださる生ける神です。

ヨハネ 13:18-38

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(34節)

キリスト教会がこの世界で認知されるとするならば、それは愛だとイエス様は言われました。愛し合うことが、一番の伝道となると言われました。愛とはなんでしょうか?聖書は言います。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(1コリント13:4-8)

愛を実践することを選ぶことはイエス様の戒めであることを忘れてはいけません。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(34節)