お母さんがいない人は、この世に一人もいません。全ての人にお母さんがいて、私たちは今ここに存在しています。今日は母の日。もうこの地上にお母さんがいないという方はたくさんおられると思いますが、命をかけてこの世に私たちを生み出してくださった「おかあさん」に感謝することはできると思います。
昨日次男が十七歳の誕生日を迎えました。母親としては次男が神様の導きを求め、御心の真ん中を歩む人生であるようにと願ってやみません。イエス様とおかあさんのマリヤとのやり取りは、聖書の中にいくつも出てきます。十二歳のイエス様が行方不明になった時、カナの婚礼の時、イエス様を連れ戻そうとした時、イエス様が十字架にかかられた時も。マリヤは息子でありメシヤであるイエス様のことをどのような思いで見守ってきたのかな?と思うことがあります。お母さんは子どもの幸せを願うもの。人間的に見ればマリヤは悲劇の母、ということでしょう。でもどのような困難も痛みも共に乗り越えた幸いな人生だったとも思うのです。(小山晶子牧師夫人)
月別アーカイブ: 2018年5月
ヨハネ 7:45-8:11
「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」」(8:7)
善悪を知る木の実を食べたアダムとエバの子孫である私たちは、自分の善悪で人を裁こうとします。自分があたかも神のように、絶対的正義を持っているかの如く、他者を責め立てようとします。しかし、神以外に正しい方はいません。神の御子、イエス様は驚くことに、この姦淫の現場で捉えられた女性にこう言いました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)
イエス様は罪のない者でしたが、私たちの罪をその身に負い、十字架にかかり死んでくださいました。イエス様は石を投げるよりもその罪を身代わりに背負ってくださいました。
今日は主の日であり母の日。すべての母に感謝し、主に礼拝を捧げましょう!
ヨハネ 7:14-44
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」(7:37,38)
2節にあるように、これは仮庵の祭りです。この祭りは、シロアムの池から水を汲み、神殿まで持っていき、注ぎ、荒野で岩から水が出たことを覚えます。しかし、最終日は、約束の地に入ったことを覚えて、水を注ぎませんでした。その時に、イエス様は
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
と言われました。ヨハネはイエス様が言われた意味をこう解説しています。
「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(39節)
約束の地は終わりではなく始まりです。神が私たちを聖霊で溢れされるのは、私たちを通して周りの人に祝福をもたらすためです。
ヨハネ 6:60-7:13
「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」」(6:68,69)
群衆は、自分たちが望んでいるように答えてくれないイエス様を見限って、イエス様から離れて行きました。しかし、ペテロたちはイエス様から離れることはありませんでした。なぜなら、イエス様がいのちのことばを持っておられることを知っていたからだと言います。聖書をただ自分の利益のために利用しようとするだけの人は、やがて、離れて行きます。しかし、聖書を神のみことばであることを認め、信じ、従う者は、決して離れることはありません。
ヨハネ 6:25-59
「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)
出エジプト記3章で、神はご自身を、
「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出3:14)
という名前で現わされました。
ヨハネ福音書では、このことを意識してイエス様が七つの
『わたしはある』
でご自身を現わされています。その第一番目が
「わたしがいのちのパンです。」
人々はイエス様に「モーセは天からのパンを彼らに与えた」(31節)ように、しるしを与えるように詰め寄りました。イエス様は、そもそも、モーセがマナを与えたわけではなく、神が与えたことを伝えます。そして、マナを食べた人たちも皆、死んだことを伝えます。そして、天からのまことのパンは、イエス様ご自身であることを示されます。イエス様を心に信じ迎える者だけが得ることができる永遠のいのちがしるしです。
ヨハネ 6:1-24
「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」(6:21)
前に進むことができなかった弟子たちの舟にイエス様が近づいてきました。彼らは、最初は恐れました。しかし、イエス様の
「わたしだ。恐れることはない。」
ということばを聞き、喜んでイエス様を舟に迎えました。すると、ほどなく目的の地に着いたと言います。時として、私たちも喜んでイエス様を迎え入れる、歓迎する祈りが必要であると思います。自分の人生に、家族に、教会に、職場に、学校に、イエス様、あなたを歓迎しますと、祈ろうではないでしょうか。
ヨハネ 5:31-47
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39‐40節)
どんなに聖書を勉強しても、イエス様のもとに行かなければ本当の意味するところを知ることはできません。しかし、多くの聖書学者は、信仰を除外し、学問としてのみ研究しようとします。イエス様について証言している聖書を、イエス様抜きに理解しようとしても、理解することができないことは明らかです。聖書のみことばは、イエス・キリストのもとに来るために記されているのですから、イエス・キリストのもとに行かなければ、聖書が意味していることが分かるはずがありません。へりくだり、祈りつつ、イエス様のもとにいくことから、すべては始まります。
ヨハネ 5:16-30
「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」」(5:17)
イエス様は、父なる神様が今にいたるまで働いておられると言われました。確かに、
「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)
とあります。神様の働きは二四時間三六五日です。そして、イエス様も同じように働いていると言います。しかし、私たちは神ではないので、二四時間三六五日働くことは不可能です。ただ、二四時間三六五日働かれている神様を、イエス様を指し示すことはできます。人にはできないことも、神にはできます。神様は今も、働かれています。
福井は遠かった。
先週福井で行われた単ペン大会に参加してきました。人生で初めての福井県。めっちゃ遠かったです。実は昨日午前2時ごろに教会に到着したのでまだ少しぼんやりしていますが、同じフェローシップの兄弟姉妹との再会やまじわりのひと時はとても楽しく、励まされる3日間となりました。来年はいよいよイーストの担当となります。こんなに遠くから時間とお金と労力をかけて兄弟姉妹が集まってくださるのですから、受け入れる側も心を込めてお迎えできればと思います。講師の先生のお話も分かりやすくて少しづつ皆様にもお分かちできればと思っていますが一つ最も印象に残った言葉があります。それは「キリストを証することを忘れてしまうとクリスチャンとしての成長が止まってしまう。」 というものです。教会が生き生きと成長するためには聖霊様の導きが大切ですが、他にも様々な私たちが担うべき要素があることを今回特に考えさせられています。この教会が神様の導きに従い大胆な信仰をもって前進していくことができますように。 (小山晶子牧師夫人)
ヨハネ 4:43-5:15
「イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(4:50)
直訳しますと、イエス様は
「あなたの息子は生きます」
と言われました。イエス・キリストはいのちを与えるいのちの主です。ですからイエス様は言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)
いのちを得るためには、イエス・キリストのみことばを聞く必要があります。しかし、聞くだけでなく、神のみことばを神の御言葉として信じて生きる必要があります。聖書の言葉は研究するためでなく、信じて従うためにあります。そして、神のみことばに生きる者は、神のいのちを体験します。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!