使徒 8:4-40

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

エルサレム教会に対する迫害が起こり、使徒たち以外のクリスチャンはみな、散らされてしまいました。しかし、そのような否定的な状況によって信仰を失うどころか、

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

と聖書は言います。戦後、日本に来た多くの宣教師たちは、中国から追放されたためにやってきました。一つの宣教の扉が閉ざされたことによって、新しい扉が開いたのです。宣教師たちは、散らされたその場所で、再びみことばを宣べ伝えました。神の働きはそのように前進します。目の前の扉が閉ざされた時は、新しい扉が開かれる時です。扉が閉ざされた時は終わりではなく、新しいことに神が召しているからかもしれません。マイナスは必ずプラスになります。

「どのような状況でも、どこに行っても、主のみことばを宣べ伝え続ける姿勢をもちつづけることができますように。」

使徒 7:44-8:3

「こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」」(7:56)

ステパノは

「聖霊に満たされていた」(7:55)

と聖書は言います。しかも、

「神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て」

とあるように、神秘的な体験までしています。ところが人々はステパノのことばに耳を傾け、悔い改めるどころか、耳をおおい、石を投げつけ殺してしまいます。しかし、ステパノは、そんな彼らを呪うどころか、

「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」

ととりなし、天に召されていきました。このステパノの姿に聖霊に満たされた人の姿を私たちは見ます。私たちは神がなされることのすべてを理解することはできません。しかし、この出来事が歴史上、非常に重要な転換点となったことは確かです。聖霊に満たされた人は、この地にキリストの愛を現わします。キリストの愛は憎しみの連鎖を打ち砕くことをステパノは証しました。

使徒 7:20-43

「『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。」(7:35)

モーセは指導者(リーダー)として、人々から拒まれた人でした。モーセは神の使命に生きようとしましたが、人々は彼を理解しませんでした。

「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。」(25節)

しかし、神はモーセを指導者としてお遣わしになりました。それでもなお、人々は、

「彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、」(39節)

と、モーセのリーダーシップを批判し続けました。神は大衆主義者ではなく、神の国はポピュリズム(大衆迎合主義)ではありません。大衆が求めることではなく、神のみこころが大切です。

動悸ふたたび

通院が始まってちょうど1年。
ずいぶん症状が良くなってきたということで今まで飲んでいた薬の量が半分になりました。けれども貧血の体質が良くなっていない、ということでサワイという薬が追加となったのですが、どうもその薬が合わないらしくとにかく体のあちこちが痒い。そのうえ動悸がするようになってきてしまいました。明日から飲むのをやめようと思っているのですが、一年前は寝ても覚めてもこういう状態だったので、ああ、あのころに比べてほとんど動悸がしない生活をしてこれていたんだなあと感謝の気持ちでいっぱいになりました。のど元過ぎれば、というかよくなってしまうとそんなことなかったのように生活をしてしまいますが、神様がどこから自分を助け出してくださったかを思い起こすときに幸せな気持ちになります。痛みや苦しみがなければ振り返って感謝する機会はもしかすると減ってしまうのかもしれません。
『わが魂よ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。』 (小山晶子牧師夫人)

使徒6:1-7:19

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(四節)

教会は人々が期待するような完全な場所ではありません。互いの弱さ、欠けを補い合うことに意味がある集まりです。教会は互いに愛し合い、赦し合い、補い合うことによって建て上げられていくようになっています。教会が誕生してすぐ信徒の中に対立が生まれました。使徒(教職者)たちは、聖霊に満ちた評判の良い信徒リーダーたちにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心することにしました。もし、使徒たちが問題に振り回されていたら、本質である「祈りとみことば」はなおざりになった可能性があります。謙遜に考えれば、一人で何でもできないことは明らかです。私たちは謙遜になって、助けられ、助けつつ前進する必要があります。

今日は主の日。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 5:12-42

「しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、」(5:39)

間違った正義感ほど恐ろしいものはありません。当時の宗教指導者たちは、使徒たちを迫害することが正しいことだと疑わなかったために迫害しました。それに対してガマリエルの発言は冷静です。

「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」

私たちも時として、冷静にガマリエルのことばを噛みしめる必要があります。自分が正しいと思って行動していることが、神に敵対する行為かもしれないという冷静さを持つ必要があります。主は言われます。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

使徒 4:23-5:11

「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」(4:24)

初代教会の特徴の一つは祈りです。彼らはお金もコネも知恵もありませんでした。彼らは問題にどう対処しようかと話し合いを重ねたのではなく、心を一つにして祈りました。ここに初代教会の力がありました。四方八方ふさがれているように見えても、天は開いています。天地万物を造られた神は今も生きておられ、私たちの祈りに耳を傾け、私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業を行われます。問題は祈るためにあります。私たちは自分の知恵を過大評価せずに、謙遜になって神を求め、祈る必要があります。

「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(31節)

心を一つにして、神に向かい、声を上げるなら、聖霊に満たされます。

使徒 4:1-22

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12節)

グローバル化の影響もあり、私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければならない時代に生きています。信教の自由は国家として保障され、互いに尊重される必要があります。それは受動的にも保障されるべきですが、能動的にも保障される必要があります。私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。LBはこう訳しています。「この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

使徒 3:1-26

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(26節)

ウィザリングトンという学者がこんなことを言っています。

「イエスはありのままのあなたを愛しているが、そのままで受け入れてはいない。イエスはあなたを変えたい。」

もし、私たちがこの世の価値観のままに生きているならば、必ずふるいにかけられる時がきます。私たちが神の国の価値観に立ち返るようにされます。聖書は言います。

「愛する皆さん。この地上では、あなたがたは単なる旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。」(Ⅰペテロ2:11LB)

神がまず、神の御子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。神の国の価値観に生きることを選択できますように。」

使徒 2:22-47

「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」(43節)

初代教会の特徴の一つは「恐れ」でした。神に対する健康的な「恐れ」が生じた結果、多くの不思議としるしが行われていたという事実を、私たちは心に留める必要があります。もちろん、神は恵みに満ちておられますが、同時に聖なる神です。C・S・ルイスはナルニア物語でアスランというライオンでこの点を描写しています。物語の中でビーバーはこう表現します。

「もちろん、あの方は安全ではありません。けれどもよい方なのです。」

イエス・キリストは私たちにとって安全な方ではなく、よい方という認識はとても重要です。なぜなら、私たちはイエス・キリストを恐れ、ひざまづくべき存在だからです。

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)