不惑

この漢字、読めましたか?

いえ、読めたとしても意味をご存知でしたか?

「ふわく」と読むのですが、わたし、実はこの言葉を知らなかったんです。先週の朝のNHKニュースの中で40歳・Jリーグ一年目という方を取り上げていたのですがそのタイトルが「不惑」だったのです。くやしいので調べてみました。

①ものの考え方に迷いがないこと。

②(論語より)40歳のこと。

なるほど。勉強になりました。

知らないことって多いです。

「無知の知」というソクラテスの言葉にもあるように、自分は知らないということを自覚することは、学ぶ上でとても大切だと思います。小さいころから教会学校に通っていた私は聖書の話を先生よりも知っている!と錯覚し新人の先生をいじっていた嫌な感じの生徒でした。でも知識として知っていることと体験を伴った受肉した知識とには天と地ほどの差があることをこの歳になって痛いほど感じています。本当の意味で聖書の御言葉を知り、その中に生きていくものでありたいと願っています。

今週も暑さに負けず頑張りましょう!(小山晶子牧師夫人)

ローマ 7:7-25

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)

「この私」をパウロと考えて、この七章の内容はパウロが救われる前の話か、それとも救われた後の話かという議論がなされてきました。ところが、シュテンダールが、「私」はパウロ自身のことではないと主張したことを通して新たな視点が開かれました。パウロ自身の葛藤を描いているのではなく、旧約聖書で扱われているイスラエル民族の葛藤だと言うのです。確かに、イスラエルの民の問題は罪でした。そう考えると、24節は旧約聖書の結論と言えます。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

そして、この問題の解決が25節。

「神に感謝!私たちの主のキリスト・イエスを通して!」(直訳)

今日は主の日。主イエス・キリストに感謝と賛美と礼拝を捧げましょう!

ローマ 6:15-7:6

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(6:17,18)

「伝えられた教えの規準」を直訳すると、「あなたがたが引き渡された教えの型」となります。つまり、神の教えの方が先にあって、そこに私たちの方が導かれていくということです。「教えの型」の「型」は、「刻印を打ちつけたあとにへこんだ型」という意味があります。これは、エゼキエル書36章に出てくる内容です。イエス・キリストを信じる者の心に聖霊が授けられているという意味は、「主の教えの型」がしっかり心に刻まれているということです。それで、聖霊に心から従うことによって、私たちは「義という新しい主人の奴隷」(18節LB)とされていきます。

「主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。」(Ⅱコリント3:18LB)

ローマ 6:1-14

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(6:3)

3節を直訳するとこうなります。

「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた私たちは皆、彼の死の中にバプテスマされたのです。」

クリスチャンになるためには水のバプテスマを受けます。キリストと共に死に、キリストと共によみがえることを意味します。初代教会の時代から、大切にされてきた儀式です。パウロは、儀式以上の意味を伝えています。キリストの死の中に、自分も入れられたのだと。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

ローマ 5:12-21

「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(5:21)

神の恵みの完全な統治は、まだ、これから、この世界の終わりにもたらされます。しかし、すでに、主イエス・キリストを通して、神の恵みの統治は始まっていて、私たちを永遠の命に導きます。新改訳二〇一七はこう訳しています。

「それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」

私たちが何をしたからではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架の御わざのゆえに、神の恵みの統治が、私たちの歩みを、滅びからいのちへと導いていきます。天国に行くことができるというだけではありません。神のみこころが天で行われているように、この地にも行われる、神の御国が現されるように導くのです。

ローマ 4:16-5:11

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」(4:18)

「望みえない」と訳された言葉は、「希望」という単語の前に「παρα」という前置詞がついています。「παρα」という前置詞は、「反して」「反対に」という意味があります。ですから、「希望に反して」と訳せます。望めないどころか、反対されていると考えることができます。さらにこの前置詞は、「超えて」(beyond)という意味があります。「希望を超えて」と訳せます。つまり、アブラハムが、「自らの力で望み続けた」というレベルを超えたところでの、「希望」という意味だと考えられます。LBは、こんな訳をしています。

「そんな約束はとうてい実現するとは思えなかったにもかかわらず、神を信じました。」

状況に絶望し、他者に絶望し、自分にも絶望し、さらに、神にさえも絶望してしまったその先にある「希望を超えた希望に」、「神の契約の家族として数え入れられる信仰」の世界があります。

ローマ 4:1-15

「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。」(4:1)

直訳するとこうなります。

「それではなんと言いましょうか?私たちはアブラハムを肉による私たちの父であると見出したのでしょうか?」

アブラハムはイスラエル民族の始祖であり、今から四千年近く前の人物です。使徒パウロは、三章で論じられてきたことを受けて、「『アブラハムの家族の一員となる』という意味は、割礼を受けたり、豚肉を食べることを禁止したりして、『ユダヤ民族になる』という意味とは違いますよね」と言っているのです。神はユダヤ民族だけの神なのではなく、どこの国の人でも、アブラハムと同じように、神に信頼する者をみな受け入れてくださる神なのだと言うのです。このような

「信仰の面から、アブラハムは、私たちすべての者の父、私たちはアブラハムの家族ということを見出しているはずですよね」

とパウロは言います。

ローマ 3:9-31

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(23,24節)

23節を原文は、次のように訳すことができます。

「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光を失った。」

エルサレム神殿がバビロン帝国に破壊される前に、ユダヤ人たちの罪のゆえに、神の栄光が神殿から去ってしまったことがエゼキエル10章に記されています。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、神殿を再建しましたが、神の栄光が帰って来たとは記されていません。まさに「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光を失った」のです。神は、すべての人の罪を赦すために、神の御子、イエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、よみがえられたがゆえに、キリストを信じる者たちのただ中には神の栄光、聖霊なる神の臨在が満ち溢れます。

アルファふたたび

きょうはとても嬉しいことがありました。アルファ・コースの参加申し込みがあったのです!できれば年に2回コースを開催したいのですが、なかなか思うようにいかず、しかも前回のアルファはいまだ最後の回が諸事情により開催できず、という状況です。しかし幼いころキリスト教の幼稚園に通っていた、という方がぜひ学んでみたい!ということで8月から始めることになりました。日曜日の12時45分から行います。14時には必ず終わりますので、もし関心のある方がいれば紹介していただければと思いますし、食事の奉仕やヘルプに入れる方は調整を担当する新實伝道師にお伝えいただければと思います。
わたしたちは小さな群れですが、常に外に向かってイエス様を伝える教会でありたいと思いますし、地の塩、世の光としての役割を果たす教会でありたいと思います。アルファのためにぜひお祈りください。そして参加するクリスチャンでない方が、コースを通してイエス様に出会えるようお祈りいただければと思います。主に委ねつつ。  (小山晶子牧師夫人)

ローマ 2:17-3:8

「からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、」(2:27)

この表現は矛盾しています。律法は割礼を受けるように命じているので、割礼を受けないで、律法を守る者とは言えません。口語訳ではこう訳しています。「生れながら無割礼の者であって律法を全うする者」。「生れながら無割礼の者」とは、ユダヤ人以外の異邦人となりますので、異邦人であっても、「律法の要求を満たしている者がいる」ということになります。つまりパウロがここで前提としているのは、ユダヤ人以外の「異邦人」でクリスチャンとなった人たちのことです。異邦人クリスチャンたちは、外見上の割礼はありませんが、聖霊によって、心に「心の割礼」を受けたのだとパウロは言います。これが、旧約聖書のエゼキエル書三六・二六、二七に預言された、神が終わりの時代に与えると約束された新しい契約の成就です。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!