ローマ 2:1-16

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」(16節)

人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。(ヘブル9:27)創造主である神は、この世界に対して責任をもたれ、最終的にすべてを正されます。「神にはえこひいきなどはないからです。」(11節)この世界の終わりの日、神は公正に裁かれます。だからパウロは言います。

「あなたは、『ほかの人の場合はいざ知らず、私の場合は別だ。神は見逃してくれる』と、たかをくくっているのですか。神がどれだけ忍耐しておられるか、わからないのですか。それとも、そんなことは気にもかけていないのですか。神があなたを罰しもせず、長いあいだ待っていてくださったのは、罪から離れるのに必要な時間を与えるためでした。神の愛は、あなたを悔い改めに導くためのものです。」(3,4節LB)

ローマ 1:18-32

「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」(1:28-31)

神を礼拝することを拒絶した人は、動物や人を拝むようになり、堕落し、闇の中に生きるようになりました。問題の根底は、

「神を知ることに価値を認めなかった」(新改訳二〇一七)

神を不必要と結論づけたことです。神を知ることは、神を畏れることであり、29節以下に挙げられるエゴイズムの追求のような倒錯した理性がもたらすものは死に値するということを認識することです。

ローマ 1:1-17

「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(1:4)

「死者たちの復活」とはエゼキエル37章に約束された、終末における聖霊による神の民の復活を指していると考えられます。つまり、イエス・キリストの復活は、この約束の成就ということです。1コリント15章では

「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節)

とありますが、旧約聖書に描かれてきたイスラエルを代表したメシヤであるということです。イエス・キリストの福音は、聖書にあらかじめ約束されたものだったということです。天地万物を造られた神は、造られただけでなく、昔も今も、これからも、私たちに一人ひとりに関心をもち、関わり続けておられます。

使徒 28:17-31

「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(30,31節)

使徒パウロのローマでの伝道の特徴は、まず第一番目に、「たずねて来る人たちをみな迎え」たことでした。まさに、来る人拒まず、去る人追わずの伝道でした。第二番目に、パウロのメッセージの中心は神の国であり、主イエス・キリストに関することでした。つまり、神のみこころが天で行われているように、この地に行われるようにと、神の支配を伝えました。神の国の王は、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたイエス・キリストです。パウロは、少しもはばかることなく、妨げられることもなく、主イエス・キリストに関して教え続けました。「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」ることが教会の中心的役割です。

使徒 28:1-16

「島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ。」と言いだした。」(28:6)

難破したパウロたちはマルタ島になんとか泳ぎ着きました。パウロが枯れ枝を一抱え集めて火にくべると、まむしがはい出してきてパウロの手にかみつきました。それを見た人たちは言いました。

「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」(4節)

しかし、パウロが振り落として、何の害も受けないのを見ると、考えを変えて「この人は神さまだ。」と言い始めました。群集心理とはそんなものです。何か悪いことが起きると、何かのたたりのように言いますが、物事が好転するとすぐにその考えを改めます。ですから、私たちは状況に一喜一憂せずに、マイナスをプラスに変える主に信頼する必要があります。

使徒 27:13-44

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」(25節)

嵐と闇、それにいつ難破するかわからない危険の中で、船の中にいた人々は、不安と恐怖におののいていました。その中でただ一人、落ちついて人々を励ましている人がいました。それが使徒パウロでした。キリスト教の特徴は希望です。私たちはイエス・キリストが死の力を打ち破ってよみがえり、今生きておられることを信じています。人生がたとえどんなに暗闇であったとしても、よみがえられたキリストの臨在は、私たちを励まします。私たちにとって死は、「死の陰の谷」と呼ばれるように一時的であり、死の向こうに天の御国への希望があります。ですから、キリスト者は周りにいる人々をも励ますことができるようになります。いつも共におられるキリストの臨在は、私たちの恐れを取り去るためだけではなく、元気を失っている人々を励ますためでもあります。

保証期間

洗濯機が壊れてしまいました。しばらく前から調子はおかしかったのですが、リセットすれば一応動いていたのでだましだまし使って数か月。とうとう動かなくなってしまい販売店へ連絡することになりました。梅雨が終わり汗をかく機会が増え、洗濯物はたまる一方。でも修理は一番早くても4日後とのことでコインランドリーのお世話になることになりました。洗濯と乾燥で一回千円。千円札をわざわざコインに両替しないといけないという手間。絶対お札を使えるようにした方がいいのに、どうしてコインしか使えないんだろう、、、あ、コインランドリーだからか、などと意味のない質疑応答を頭の中で繰り返していました。5年保証にしておいたのに気がつけば5年2か月。おかしいと思った時点で早めに手を打っておけば修理が無料だったのにランドリー代を含めかなり痛い出費になってしまいました。信仰生活も、あれ?と思った時は早めに手を打った方がいいかもしれません。聖書を開き、読み、黙想し、祈る。私たちの修正の仕方はとてもシンプルですから。(小山晶子牧師夫人)

使徒 26:24-27:12

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。」(27:11)

素人のパウロの言葉よりも、航海士や船長のことばを信用するのは一般常識だと思います。しかし、この後、パウロはこう言うことになります。

「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。」(21節)

パウロにしてみれば、「だから言ったのに…」というところだったと思います。私たちは、どのぐらい神のことばを信用しているでしょうか?専門家のことばよりも、一般常識よりも、神のことばを信用していると言えるでしょうか?日々、聖書を開き、神のみことばに耳を傾けているのは、神のみことばを信用しているからだと思います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 25:23-26:23

「すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」(26:23)

新改訳二〇一七では、正しくも、「最初に」を復活にかけています。

キリストは「死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになる」。

イエス・キリストの復活は1コリント15章にもあるように「眠った者の初穂」です。すなわち、エゼキエル37章に出てくる枯れた骨の復活が始まったことを意味します。エゼキエル37章には、さらに、メシヤにあって二つの杖が一つになる幻が描かれています。「この民と異邦人」とに福音は宣べ伝えられ、キリストにあって一つとなるということだと思われます。そしてエゼキエル書43章には神の栄光の帰還が預言されています。「光を宣べ伝える」とは、まさにこのイエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされた神の栄光の帰還を宣べ伝えたということです。

使徒 25:1-22

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(25:19)

ローマの総督フェストゥスの発言に、当時のユダヤ人以外の人たちがどのように復活を理解していたかを垣間見ることができます。彼は死んでしまったイエスが天国に行ったとパウロが主張しているとは言いませんでした。

「そのイエスが生きているとパウロは主張している」

と言いました。フェストゥスがパウロの弁明をどれだけ理解できていたかは分かりませんが、少なくとも、「死人の復活」が争点となっていることは疑う余地がなかったのです。イエス・キリストの復活を迷信、神話と主張する人がいます。「死人の復活」が信じられなかったのは昔の人も同じです。その信じられないことが起こったからこそ争点となったのです。聖書の主張は変わりません。イエスは死から復活し、生きています。