2コリント 4:1-18

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(4:1,2)

使徒パウロは、神のみことばを教えることに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、

「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」

とあります。神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことにつじつまを合わせるために存在しているわけではありません。聖書には聖書の文脈があります。私たちは聖書に読み込むのではなく、読み取ります。

2コリント 3:7-18

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(3:16-18)

神が私たちに一番求められていることは、主に向くことです。問題やこの世の楽しみに私たちが向いているならば、神が与えようとしている自由を体験することは難しいからです。聖書は言います。

「私たちの指導者であり、教師であるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)

ペテロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様から目を離してしまうと、私たちは沈んでしまいます。しかし、イエス様の方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下さいます。

2コリント 2:12-3:6

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(3:6)

旧約聖書には古い契約と新しい契約が出てきます。古い契約は、出エジプトの時、モーセを通して与えられた契約です。イスラエルの人々は、その契約を守ることができませんでした。その結果、イスラエルの人々はバビロンへ捕囚されます。しかし、神は新しい契約を約束しました。それは、聖霊を与え、聖霊に従って生きる生き方です。この新しい契約のために、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。今、誰でも、イエス・キリストを信じる者は、この新しい契約の中に生きます。聖霊によって神の戒めに生きるのです。

2コリント 1:23-2:11

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(2:7)

日本人は道徳観が比較的に高い国民だと思います。そのため、それぞれが持つ倫理基準に達さない人を切り捨てやすいという側面もあると思います。しかし、それはイエス様がしたこととは違います。イエス様はご自身の基準で人々を裁くことはありませんでした。逆に、裁く人を裁かれました。同じようにキリストのからだである教会にいつも必要なのは恵みの雰囲気です。教会は恵みのビニルハウスである必要があります。神の前に悔い改める人が、切り捨てられるのではなく、回復できる場所である必要があります。使徒パウロは言います。

「今はむしろ、赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、余りの悲しみと絶望に打ちひしがれて、立ち直れなくなるかもしれません。」(LB)

神様は私たちを切り捨てたいのではなく、回復したいのです。

2コリント 1:12-22

「私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。」(1:13)

「読んで理解できること」という意味は、比喩などがないということではありません。いわゆる建前だけを書いていて、本音は別の所にあるということはないと言うことです。建前と本音が違うというのは、聖書的には問題があります。もちろん、相手に対する配慮は大事なことですが、本音を探らなければならないような関係には問題があります。

大都会

ハイビーエーキャンプ、リサイタルともに無事終わりました。お祈りいただきありがとうございました。かなり緊張する場面が多かったためか、神経が高ぶりスローダウンに時間がかかっているようにも感じますが、一つ一つの集会、コンサートが神様の導きの中でなされていったことを確信することができ実り多い日々でした。キャンプ場最寄駅は房総半島にある上総一ノ宮という駅です。そこから「わかしお」に乗って東京に戻り、新宿経由で東府中にあるリサイタル会場へと移動しました。上総一ノ宮駅は田舎を絵にかいたような場所にある駅で、そこから東京に戻ってくるときのギャップが興味深かったです。のどかな田畑の景色がぎっちりと立ち並ぶ様々な高さのビルへと変わっていく様。マンションにスカイツリー。そのあらゆる場所に数え入れないほどの人々が生きている。その一人一人を神様が愛しておられる。どうしてこんな小さな者を、と不思議に思います。選ばれて御言葉を託されていることはさらに不思議なことです。神様のあわれみは尽きません。(小山晶子牧師婦人)

2コリント 1:1-11

「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(1:9)

使徒パウロはアジアで体験した苦しみに言及し、自分の無力さを痛いほど思い知らされ、自分の許容範囲を超え、死を覚悟したと言います。ところがパウロはこのように告白します。

「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(LB)

パウロは、自分ではどうすることもできないがゆえに、神に頼ることを強制的に学んだと言うのです。神は時に、私たちが自分自身ではなく、神により頼むことを学ぶために、私たちにはどうしようもないような状況に追い込まれることを許可します。私たちはいつになったらパウロのように謙そんになって、キリストを離れては何もできない(ヨハネ15:5)と認めることができるのでしょうか。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1コリント 16:5-24

「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(16:7)

使徒パウロは、自分の宣教旅行計画をコリントの教会の人々に伝えるのですが、こう付け加えました。

「主がお許しになるなら。」

ヤコブの手紙の中にこういう箇所があります。

「明日どんなことが我が身に起こるか、どうして分かるでしょう。・・・ですから、こう言うべきです。『主がお許しくださるなら、私は、あのこと、このことをしよう。』」(4:14,15LB)

神の民として、私たちは未来に関してこのような柔軟な姿勢を持つ必要があります。自分の計画にこだわって、神の介入を受け止めることができないのは、寂しいことです。神は私たちの人生を最善に導きたいと願っておられます。自分の願いに固執せず、柔軟に対応していく必要があります。チャック・スミス師はこう言います。

「幸いなるかな柔軟な人。その人は折れることはない。」

1コリント 15:50-16:4

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(15:58)

15章はこう始まります。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」

ですから、15章の主題は「福音」と言っても過言ではないと思いますが、「福音」の結論が、

「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」

という点に注目する必要があると思います。福音は、私たちが神の御国の民として生きるように促します。そして、神の御国の民として労苦することは、決して無駄ではありません。

1コリント 15:35-49

「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(15:45)

復活は神の創造の御業の完成でもあります。人は神の栄光を反映する者となるように造られたのに、罪を犯したため、神の栄光を失ってしまいました。最後のアダム、イエス・キリストは、完全な神であると同時に完全な人となり、十字架で死なれることを通して罪の力を打ち破られ、よみがえられました。ですから今、枯れた骨に聖霊が与えられいのちが与えられたように、イエス・キリストご自身がいのちを与える御霊となって、いのちを与えられています。そういう意味で復活のからだはこの世界の終わりに起こる「まだ」の現実ですが、イエス・キリストを信じる者は「すでに」復活の民とされています。