2コリント 7:2-16

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5,6節)

使徒パウロは、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンのように考えてしまいます。しかし、彼も、私たちと何も変わらない普通の人でした。不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、

「その時、神様は意気消沈しているものを励まし、テトスの帰還によって元気づけてくださいました。」(LB)

とあります。聖書の神は、意気消沈しているものを励ますお方です。興味深いことは、「テトスの帰還によって」とあるように、神は人々を励ますために私たちを用いられるお方です。今日、神は私たちの存在を通して励まそうとしている人がおられます。今日、祈りつつ、誰かに励ましのことばを伝えてみませんか。

2コリント 6:3-7:1

「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。

「私たちは自分たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、また、主を非難する口実に用いられないように気をつけています。」

私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちの行動を怒ったとあります。イエス様との出会いを妨げるならばイエス様は必ず怒られます。多くの方が、主との出会いを体験できますように。

さくらももこさん

まだ遠距離恋愛中だった25年前、アメリカへ留学中の英児さんに送った唯一の本がさくらももこさんのエッセイ「もものかんづめ」。これを送られた英児さんはなぜこの本を私が送ってきたのか「?」だったそうですが、どんなにつらくてもこの本を読んだら絶対に笑える!と思ったのです。8月半ばに53歳で彼女が亡くなった、というニュースは彼女のエッセイや漫画をほぼすべて読んできた私にとって非常にショッキングな知らせでした。そんな話を息子にしていたら、アニメ「ちびまる子ちゃん」に『まるちゃん教会へ行く』という回がある、との情報を教えてくれました。さっそく見てみました。まるちゃんがブー太に誘われてお菓子目当てで教会に行くというお話。知らない賛美歌に戸惑ったり、朝起きるのがつらくて次の週は休んだり、初めて行った日に聖書をもらったり。きっと小学生のさくらさんが実際に礼拝に参加した時のいろいろな気持ちが詰め込まれたお話なのだと思います。まかれた種がどうか残っていますように。そんなことを思いながら見ていたら泣けてきてしまいました。 (小山晶子牧師夫人)

2コリント 5:11-6:2

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5:17)

「その人は新しく造られた者です」という意味は、「新しい創造」に属する存在となったということです。新改訳二〇一七では別訳として、

「そこには新しい創造があります」

と訳しています。つまり、キリストが再び来られて、すべてが新しくされるその日を待たずして、キリストの中にある人は、すでにその「新しい創造」とされているということです。ですから、後半部分を新改訳二〇一七では別訳としてこう訳しています。

「新しいものが到来しました。」

キリストを信じる者はこのことを再認識する必要があります。私たちは「新しい創造」に在る者であるということを。「新しい創造」に在る者として、聖霊に導かれて、神の栄光をこの地に輝かせることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2コリント 5:1-10

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(5:9,10)

すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判に使われる言葉です。この世で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!