ヘブル 2:1-18

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(2:14,15)

LBでは、今日の箇所を、こう訳しています。

「神の子どもである私たちは、血も肉もある人間です。そこでイエスも、血肉をもった人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、一生涯死の恐怖の奴隷となっている人間を救い出す方法だったのです。」

どうして、イエス・キリストが人の子として生まれてこなければいけなかったかを明確に語っています。神の御子が、人として生まれてきてくださったから、私たちには救いがあります。無限の神の子が、有限な血肉を持たれた理由がここにあります。

ヘブル 1:1-14

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(1:1,2)

旧約聖書を見ますと、神が様々な方法で語られたことが分かります。しかし、この終わりの時代は、イエス・キリストにあって語られるというのが聖書が明確に教えていることです。イエス・キリストにあって語られるという意味は、三位一体である聖霊によって語られるということです。聖書の本当の著者は聖霊です。ですから、今、聖書を通して語られるということです。聖書は物語(ストーリー)です。作り話という意味ではなく、物語という文学様式で書かれているということです。聖書を神の物語として語られているということを心に留める必要があります。六法全書ではなく、物語が与えられたのは、私たちが今も継続する、聖書の神の物語の民として生きるように求められているからです。

ピレモン 1-25

「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」(6節)

イエス・キリストはこう言いました。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

「信仰の交わり」というのは、二人でも三人でも、共に祈る時、共に礼拝を捧げる時、生きて働くものです。前半部分を直訳するならばこうなります。

「私たちのうちでなされているすべての善を認識することによって、キリストに向かっていくように。」

私たちの「信仰の交わり」が、キリストを指し示すものとなっているかどうか、それが、私たちが問う必要があることです。

豆苗(とうみょう)

最近野菜が高い。感覚的には普通の時の倍はしています。とはいうものの、野菜の値段が上がる以前から我が家の定番は金額の変動の少ないキノコ類、もやし、値段に関係なくどうしても必要で買うキャベツなどです。灰汁の強い野菜は胃を痛めてしまうので濃い色の野菜を買うことは最近ほとんどありません。ずいぶん選択肢が少なくなってさびしく思っていたところ、豆苗の存在を知りました。まず値段が安い!しかもボリュームもある上にくせがなく、切って残った根を水につけるともう一度収穫できるという優れもの。水につけて3日目。切り口から一本芽が出てきました。5日目には全体から芽吹いてきてなんてかわいいんだろうと暫しうっとりと眺め、成長を楽しみにしていました。ところが。つい先ほど、猫のジョシュがおいしそうにむしゃむしゃ食べている現場に遭遇してしまい、猫草となってしまった今回の豆苗に別れを告げることになりました。このように育てるということには忍耐が必要です。でも、成長過程を見れるって育てる者の特権ですね。(小山晶子牧師婦人)

テトス 3:1-15

「また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」(2節)

聖書には明確にキリスト教会に集う人たちのあるべき態度を次のように教えています。

「人の悪口を言ったり、けんかをしたりせず、やさしい態度で、すべての人に礼儀正しく接するように教えなさい。」(LB)

意見の相違は避けられませんが、礼儀正しく接することはできます。イエス様も言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35新共同訳)

しかし残念ながら教会の歴史を見ると争いがあったことは事実です。しかし私たちはあきらめずに、聖書のみことばを信じ、立ち返る必要があります。

「神はこの聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」(6節新改訳二〇一七)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

テトス 2:1-15

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(2:14)

イエス・キリストを信じる者には

「祝福された望み」(13節)

があります。それはキリストの再臨です。キリストは再び来られます。私たちはいつキリストが来られても大丈夫なように生きるように命じられています。具体的には

「神を認めない生き方と罪にまみれた快楽とを捨て去って、日々神を敬う正しい生活を送ること」(12節LB)

です。世捨て人になることではなく、神の国の民として今を生きることです。ですから私たちは日々告白する必要があります。

「キリストは、私たちの罪のためにご自身をささげ、神のさばきを受けて死んでくださいました。それは、罪の泥沼にはまり込んでいた私たちを助け出してご自分の民とし、心のきよい、熱心な、善意の人と変えてくださるためでした。」(LB)

テトス 1:1-16

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」(1:9)

テトスの手紙は、パウロがテトスに宛てて書いた手紙です。テトスはエーゲ海に浮かぶクレテ島で教会の指導者として働き、また後継者を任命するという責任を担っていました。ここでの「長老」は現代の「牧師」に相当すると思われますが、パウロはテトスにその資質の一つとしてこう言いました。

「教えられたみことばの真理をしっかり守っている人であることも大切な条件です。なぜなら、彼らの使命は人々に真理を教え、反対する者に、その誤りをはっきり指摘することにあるからです。」(LB)

「おしえられたみことばの真理」こそ、新約聖書に書かれていることです。ですから牧師の条件の一つは聖書の教えをしっかりと守っているということです。すべての牧師のためにお祈りください。

2テモテ 4:1-22

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(4:2)

使徒パウロが、若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。ですから、キリスト教会の主日礼拝の中心は、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージです。使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26,27)

「神のご計画の全体」ということは、聖書の全体と理解することができます。創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを語る責任があります。

2テモテ 3:1-17

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(3:16)

「神の霊感」は直訳しますと「神の息吹による」となりますが、聖書の本当の著者は聖霊なる神であるという意味です。人間の著者がいますが、彼らは聖霊に導かれて書いたので、神のことばそのものなのです。聖霊が語るままタイプライターのように機械的に書いたということではありません。聖霊はそれぞれの著者の個性、表現方法を用いられました。しかし、「すべて」とあるように聖書のみことばはすべて、創世記から黙示録まで神のことばです。ですから、「私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれます。」(LB)聖書は、他のすべての人間が書いた本とは違います。神のことばそのものです。ですから力があります。権威があります。聖書は誤りなき神のことばです。私たちの信仰と生活の唯一の規範です。

2テモテ 2:1-26

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」(2:24,25)

中世の暗黒時代の教会が行ったような、力ずくで人を正そうとする方法は、クリスチャンのやり方ではないと聖書は言いますので正当化することはできません。だからと言って聖書は「ことなかれ主義」を奨励しているわけではありません。25節をLBではこう訳しています。

「おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人は間違った考え方を改め、真理を悟るかもしれません。」

人は人を変えることはできません。しかし、神の助けによって、人は変わることができるかもしれないと言います。ですから、私たちは聖霊なる神の助けを祈り求めつつ、忍耐をもって、聖霊の導きに従っていくことができますように。