2テモテ 1:1-18

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(1:7)

若い伝道者であったテモテには、たくさんの恐れがあったことが、パウロの語る言葉から知ることができます。テモテは、パウロのような特別な体験をしたわけでもなく、経験も浅く、自信をもって教会を指導できるような状態ではなかったのだろうと思います。ですから、パウロはテモテに自分の能力ではなく、神が与えてくださったものに焦点を合わせるように促します。どんなに自分の中におくびょうな霊しかないと感じていても、神はあなたに、力、愛、慎み(自制)の霊を与えているではないかと言うのです。私たちもこの視点の転換が必要です。どんなに自分の内に良いものを見いだせなくても、神が私たちに与えてくださっているものがあります。神が自分に与えてくださっているものは何かを考えることができますように。

おくれますよ

先週こんなことがありました。次男が朝9時に港南台に行かなければならなかったので、15分前になった時に『しおん、遅れますよ。』と声をかけてあげました。すると『あーはいはいはいはい』と何とも軽い返事が。さらにそこから5分経っても出かける気配がありません。もういちど、『しおん、遅れるよ!』と強めに言ったところ『聞こえてるって。ありがとう!』となぜか頓珍漢な返事。ありがとうってなぜ??小さなパニックを起こしていると『準備できたよ!送ってくれるんでしょ?』というのです。「おくれるよ」という同じ言葉で、お互いに違う意味をイメージしていたのです。この場合、次男は何とも都合のいい解釈だと思うのですが、結局私が車で送ることになってしまいました。笑い話のようですが、でも聖書を読むうえでこういうことってありませんか?時として自分のフィルターが邪魔をしてしまい、本来聖書が語っていることを間違って解釈し聖書が語っている以上に読み込んでしまう。そうならないためにも、前後の文脈を確認することが大切なのですね。(小山晶子牧師婦人)

1テモテ 6:3-21

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6:10)

ジョン・ウェスレーは言いました。

「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」

聖書は経済が祝福されることに肯定的ですが、金銭が万能であるかのように金銭に支配されることはあらゆる悪の根だと警告します。それで、このように続けます。

「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」(17,18節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1テモテ 5:1-6:2

「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(5:24,25)

良いことであれ、悪いことであれ、どんなことでも隠し通すことができるものはありません。聖書は

「いつまでも隠れたままでいることはありません。」

と言います。明らかにされないものはないと。ですから良い行いに関してイエス様はこう教えました。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「ですから人に親切にする時は、右手が何をしているか左手でさえ気づかないくらいに、こっそりとしなさい。そうすれば隠れたことはどんな小さなことでもご存じの天の父から、必ず報いが頂けます。」(3,4節LB)

1テモテ 4:1-16

「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(4:13)

聖書が牧師に命じている仕事内容は、

「教会で聖書を朗読し、その内容を教え、神のことばを伝えなさい。」(LB)

ということです。なぜなら、

「終末の時代には悪霊の教えを広める教師が現れ、教会の中からも、キリストから離れてその熱心な弟子になる者が出ます」(1節LB)。

この文脈における悪霊の教えとは、結婚を禁じたり、肉を食べることを禁じたりするものでした。

「食物は、神が私たちに喜び楽しむようにと備えてくださったのものです。」(3節LB)

と聖書は言います。間違った教えに振り回されないためには、牧師が教会で日ごろから聖書朗読、聖書の勧めと教えに専念する必要があると命じています。

1テモテ 3:1-16

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」(3:5)

教会の奉仕は大事ですが、パウロはそれよりも家庭を優先するように勧めています。家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(8節)

家族を顧みることが出来ない人は、

「クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。」(LB)

とまで、聖書は語っています。夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと言うのです。もちろん、イエス様は神の国と神の義をまず第一にするように教えられました。しかし、それは家庭を省みなくて良いという意味ではありません。

1テモテ 2:1-15

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(2:5-6)

聖なる神の御前に、罪深い人間が立つことができると考えることは厚かましい話ですし、思いあがっています。人間が神の御前に立つためには、仲介者が必要です。しかし、人は仲介者になることはできません。聖人と呼ばれるような人であっても仲介者になることはできません。神と人との間の仲介者は、唯一、神の御子イエス・キリストだけです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。ただ仲介者であるイエス・キリストのゆえに、私たちは神の御前に立つことができます。

1テモテ 1:1-20

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1:15)

ある時、イエス様が取税人や罪人たちと食事をしているのを見た当時の宗教指導者たちはイエス様の弟子たちに言いました。

「おまえたちの先生は、どうして、こんなどうしようもない連中といっしょに食事をするのか。」(マルコ2:16LB)

それに対して、イエス様はこう答えられました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(17節新改訳二〇一七)

健康な人は医者を避けます。しかし、病気になると医者が必要だと分かります。人類は病んでいます。だから神は偉大な医者、御子イエス・キリストを送られました。パウロのように、イエス・キリストが必要であることを認めることからすべては始まります。

オープンチャーチ

「教会ってどんなところ?」
「教会の中はどんな感じ?」
「敷居が高くて入りずらい…」
日ごろそう感じている方でも、気軽に足を運んでいただけるようにオープン・チャーチは教会を開放して皆様のお越しをお待ちしています。
食事、デザート、生演奏、子どもコーナーなどを設けています。
ぜひ、お立ち寄りください。

 

2テサロニケ 3:1-18

「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」(3:5)

パウロの祈りは、神が一人一人の心を、「神の愛」と「キリストの忍耐」に導かれることでした。文脈から考えますと、「神の愛」というのは、

「主のことばが至る所で急速に広まり、あなたがたのところで起きたと同じように、各地で救われる人が起きるように祈ってください」(1節LB)

ということに関係があります。「キリストの忍耐」は、

「私たちが悪い者たちの手から救い出されるように祈ってください。」(2節LB)

と関係しています。すべての人が救われるように祈り、伝道していく「神の愛」と、それに伴う数々の試練に耐えていく「キリストの忍耐」、その両方が必要です。

「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたに力を与え、悪魔のどんな攻撃からも守ってくださいます。」(3節LB)

というみことばをしっかり握っていきましょう!