ヤコブ 5:1-20

「そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(5:18)

17節に

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。」(新改訳二〇一七)

とあるように、この箇所の背景は列王記第一のエリヤの話です。

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」」(18:42,43)

つまり、「再び祈ると」という時も、予兆が見えるまでエリヤは熱心に祈り続けたということです。私たちは祈っても何も起こらないとすぐあきらめてしまう傾向はないでしょうか。エリヤも私たちと同じ人。私たちもあきらめずに熱心に祈り続けましょう。

ヤコブ 4:1-17

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)

自分があたかも神のように振る舞うことが、すべての問題の根源であるというのが、この章のメッセージです。わがまま、気ままにやりたいがゆえに、戦いや争いは起こると言うのです。ですから、まず、神の前にへりくだることが大事だと言います。神が良い時に、引き上げてくださるから、自分で自分を引き上げてはいけないと言うのです。引き上げるのは神の役割で、私たちの役割は、へりくだることだと言うのです。膝を屈めた人だけが、立ち上がることができます。神を神として認めることが大切です。神は言われます。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(4:6新改訳二〇一七)

ヤコブ 3:1-18

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(3:17)

「温順」という言葉は、あまり聞かない単語だと思います。国語辞典には、「おとなしくすなおで、人にさからわないこと」とありますが、LBでは、「独善的でなく、人のことばに喜んで耳を傾けます」と訳しています。ですから、「穏やかな従順」、もしくは、「教えられやすい体質」、「扱われやすい性格」のことだと言う事ができると思います。新改訳二〇一七では「協調性」と訳しています。神は私たちに純真、平和、寛容といった品性だけではなく、温順という品性を与えたいと願っています。私たちは学ぼうと思えば、すべての人から、すべての事柄から学ぶことができます。誰からも、何からも学ぶ「温順」の品性をもつことができるのならば、私たちの人生は、必ず豊かになります。

ピザを食べました。

Lサイズのピザが二枚、目の前に用意されていました。特に左側のピザは数種類のチーズがたっぷり!めずらしくグルテンにうるさい(私がグルテンをとると怒りっぽくなるため)息子たちも側にいなかったので、チーズたっぷりの方を一切れ手に取って大口でぱくりと食べてみました。とろーりチーズの芳醇な甘い香りと濃厚な深い味に思わず「うわーおいしい!」と声が出てしまいました、、、というところで目が覚めたのです。そう、悲しいことにこれは夢。でも口に入れた時の感触といい、味わいといい、本当に食べたのだと思ってしまうほどでした。夫に「さっきピザを食べた夢を見たんだよー。チーズがすごくおいしかったんだよー」と話したら、「神様はやさしいね。あきこがピザが食べたいって言ってたから夢の中で食べさせてくれたんだね。」ですって。確かに。こんな形で願いをかなえてくださるなんて。神様、今日の夜はシュークリームとパンケーキと御座候でお願いします!冗談はさておき、でも、神様の恵みは眠っている間にも変わらず注がれているのですね。(小山晶子牧師婦人)

ヤコブ 2:1-26

「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」(2:19)

「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(2:14)

と聖書は私たちに投げかけます。つまり、聖書が求める信仰とは単に神の存在を認めることではないと言います。実際、悪霊だって神の存在を認めて身震いしていると警告します。神の存在を認めていても、神を神とせずに、自分中心に生きているならば悪霊どもと同じだというのです。聖書が求める信仰は、神を神として認め、従っていくことです。神を神として認めている者らしい行動が求められています。

今日は主の日。神の国と神の義を第一にして、共に主に礼拝を捧げましょう!

ヤコブ 1:1-27

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(1:17)

聖書の神は良い神です。聖書は言います。

「あなたは いつくしみ深く(good) 良くしてくださるお方です」(詩119:68新改訳二〇一七)

神が与えてくださるものもすべて良いもので、完全なものです。さらに、神は変わることがありません。神は過去存在し、未来に統べ治められる神であるだけでなく、今生きておられ、私たちを愛し、導き、守ってくださる、良いものを与えてくださる現在の神です。私たちは神のイメージを聖書的にする必要があります。聖書の神は、よくある神話に出てくるような良いものを奪っていくわがままな存在ではなくて、私たちを愛し、私たちに関心をもち、良いものを与えてくださる神です。この確信に、私たちの心が深く満たされることができますように。

ヘブル 13:1-25

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(13:8)

聖書に描かれているイエス・キリストは、二〇〇〇年前の話だけでなく、今も、そしてこれからも変わりません。イエス・キリストは十字架にかかり死にましたが、三日目に死の力を打ち破り、復活し、今も生きておられるからです。使徒ペテロが、

「このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」(使徒10:38)

と言ったように、イエス・キリストは今も聖書に描かれているように人々の病気をいやし、人々を悪霊から解放されています。イエス・キリストの御業は聖書を通して知ることが出来ます。イエス・キリストは今も変わらずに御業を継続されています。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(5節)

と言われたイエス・キリストは今も、これからも変わりません。

ヘブル 12:14-29

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(12:14)

私たちが目指すところはすべての人との平和です。ヘブル語で平和は「シャローム」です。「シャローム」の意味は単なる争いがないという意味ではありません。理想的な完全状態を意味します。部分的でなく、全体的な調和を意味します。ですから、健康とも訳されますし、成長とも訳されますし、繁栄とも訳されます。つまり、私たちは単に争いのない状態を追い求めるように命じられているわけではありません。すべての人が祝福され共生していくシャロームを追い求めるように命じられています。それは、安易に妥協することではありません。ですから、「聖められることを追い求めなさい」と言われます。「自分はキリストのもの」という意識をしっかりと持ちながら、すべての人との平和を追い求める必要があります。

ヘブル 12:1-13

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(12:2)

イエス・キリストは、私たちの信仰の創始者であり、完成者だと聖書は言います。私たちの信仰は、イエス様から賜物として与えられているものです。そして、イエス様は私たちから離れることなく、信仰の働きを完成してくださいます。ですから、使徒パウロは言いました。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

主は、あなたを見捨てるためにここまで導かれたわけではありません。主は必ず、主の働きを完成されます。ですから、私たちはただ、イエス様から目を離さないことが大切です。

ヘブル 11:17-40

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」(11:24,25)

モーセは、エジプトのファラオの娘の息子として何の不自由なく生きることができました。しかし、モーセはそれよりも、神の民とともに苦しむ事を選び取りました。これが信仰の世界です。使徒パウロも、キリストの復活の力だけでなく、キリストの苦しみの交わり(コイノニア)も知りたいと言いました。信仰の世界は苦しみのない生活を保障するものではないということは明らかです。しかし、それはこの世のどんな宝よりもはるかに価値ある人生です。ですから使徒パウロは言います。

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)